日中「お役人」の罰され方

執筆者:徳岡孝夫2006年11月号

 遠い昔、大和朝廷は唐の制度に学んで中央集権の国家体制を作った。ところが学ぶというのは始末におえないもので、長所と共に短所も学ぶ。寡聞にして「日本賄賂史」といった研究書は未見だが、私はひそかに官吏腐敗の淵源はシナからの学習にあると睨んでいる。 知事の弟が調整した福島県の談合、梶原拓知事時代の岐阜の役人が行なった裏金づくり――とどのつまりの五百万円現ナマ焼却などは、いまに始まったことではないはずだ。 平安朝、すでに内親王や才女たちを運んだ牛車の納入をめぐって、談合が行なわれていたのではないか。また平清盛が西八条の館で催した大宴会の支払い伝票は、半分くらい後白河上皇にツケ回しされたのではないだろうか。 旧約聖書も『古事記』も天地開闢の物語をもって始まるが、実は男と女が分れるのと同じくらい大切な一瞬があって、どこにも書かれていない。それは「官」と「民」が分離した日である。以後、両者は姿形こそ似ているが、全く異なる動物として進化・発達した。 官の腐敗を戒める言葉は、シナに大昔からある。たとえば「文臣銭を愛せず武臣死を惜しまざれば、則ち天下平らかなり」という。戒めというより当時すでに銭を愛する文官や死を惜しむ軍人が世に満ちていたことへの嘆きだろう。

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