キューバの半世紀 

執筆者:徳岡孝夫2015年1月15日

 大学の敷地に沿ったバス通りの夜道を、背を丸めて歩きながら、ルームメイトがボソリと言った。

「今夜、アメリカ合衆国の運命が決まるんだなあ」

 1961年4月の夜だった。彼と私は、大学の正門に近い小さい料理店へ、夕食に行くところだった。大学院生の寮の食堂で出す夕食より安くて旨いのである。そのうえ親爺は気のいい男で、「日本人は魚が好きだろ。いいのを仕入れておいたぜ」と言って私にはいつも魚のフライを出し、タルタル・ソースを2人分張り込んでくれた。

 

 ニューヨーク州中部の湖水地帯に近い大学町はまだ春浅く、日がとっぷり暮れたバス道は暗く寒かった。

 その日の午後のニュースが言っていた。

「米国に亡命しているキューバ人の義勇軍が、船何隻かでキューバのBay of Pigsに逆上陸した。マイアミから至近距離。カストロのキューバ政府軍が迎え撃ち、ただいま交戦中。ホワイトハウスのケネディ大統領は……」

 私は聞いて「ふーん、そうか」と聞き流した。「豚湾」とは滑稽な地名だなと思っただけだった。

 だがアメリカ人にとっては焦眉の急なのだろうと想像できた。なにしろフロリダの沖に浮かぶ「カリブ海の真珠」ではあるが、アメリカ全家庭のコーヒーテーブルに載っている砂糖壷の中身は、ほぼ全部がキューバから来る。紳士が食後に喫う葉巻は、10本が10本キューバ産である。文豪ヘミングウエイは、『老人と海』などでキューバと運命的に結びついている(その年の7月に猟銃で自殺)。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。