都市国家と呼ぶよりは「家産国家」と命名するのにふさわしいシンガポール建国の父リー・クアンユーが91歳で逝去した。家産国家とは、領土や人民などがすべて君主の私有物となされる国家のことだ。インタビューなど、私は彼には3度にわたって意見の交換を行う機会があった。これを回顧しつつ、彼が発揮した政治力量や秀でた展望力の背景に国家としての生存を巡る厳しい環境があったことについて触れてみたい。

 

「一生のうち歌う国歌を4回も変えたことをあなたは想像できるか」

 

 彼は英国の植民地下のシンガポールで1923年に生まれた。最初の国歌は英国のものだった。1942年に旧日本軍の占領下に置かれた。20歳前の青年は占領軍の用足しもしたという。「君が代」が国歌となった。1946年には英国に留学し、50年には帰国して弁護士業を開業した。ケンブリッジ大学は「ブリティッシュ・マラヤ」(イギリス領マラヤ連邦)の学生の視野を広げるだけでなく、専門人として生きていく術をも与えたのである。

「ブリティッシュ・マラヤ」では労働組合の結成が許可されていた。彼は労組の指導者に司法上の助言を行うことを通じて少しずつ地歩を築くことになる。1954年に独立を目指すPAP(人民行動党)が結成されるが、これに関わったのもこうした専門人としての社会関与の帰結であった。

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