超権威主義者の退場

執筆者:徳岡孝夫2015年4月8日

 取材した私が憶えている1960年代後半のASEAN(東南アジア諸国連合)の首脳会議や外相会議は、今とは比較にならないシンプルなものだった。加盟国も5カ国だった。

 いまキャメロン高原(マレーシア)での外相会議を思い出すが、外相たちは9ホールのゴルフ・コースに面したホテルに泊り、われわれ記者団はホテルを取り巻くバンガローに適当に分宿し、朝食を済ませてホテルに集まると、やがてドアの向こうから「おーい、終わったよ」と声がする。

 どやどやと中に入って、外相たちが囲んでいた1つのテーブルの周りに座り、幹事役の外相が会議の内容を語り、1人か2人の記者が質問した。その場でポータブルのタイプライターを開いて原稿をローマ字で打ち、会議室を出ると小さいデスクを置いてRCAの青年が座って待っている。ポンと原稿を渡せば、こちらがタクシーを呼んで山の麓のマレーシア国鉄イポー駅に着く頃には原稿は東京に届いているという具合だった。

 

 当時のASEANの存在理由は単純明快だった。北ベトナム軍は、いずれ米軍を追い出し、全ベトナムを手に入れるだろう。共産主義はラオス、カンボジアへspill outし、やがて東南アジア全域を支配しようとする。そのとき1国でhelp! と叫んでも声が小さい。5カ国が一斉に窓を開けて叫べば、世界が助けに来てくれるだろう。その程度の思惑に立つ連合だった。

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