「松岡―林野一家」連帯構造の成立と崩壊

執筆者:木村智之2007年7月号

改革を潰して“林野一家の守護神”となった男は、農水相として“構造”の頂点に立った。しかし、過去を消すことはできず――。「政治生命の危機に瀕して、進むことも戻ることもできなかったんだろう。十年前、身体を張って守った林野の利権に、最後は自分自身ががんじがらめにされていたのかもしれない」 松岡利勝前農水相の自殺から数日が経った六月初旬、自民党の元ベテラン秘書はそう述懐した。「森林を育て林道を通すという治山治水事業は、党内でも特殊な分野だった。林野といえば、昔は竹下(登・元首相)さんが絶対的存在。全国の山持ちの団体と林業土木業者は、竹下さん一辺倒だった。同じ派閥の議員でも、山のことが分からない人はまったく手が出せなかった」 その林野の世界で一九九〇年代後半から族議員として急速に台頭したのが松岡だった。最大の理由は、当時の橋本龍太郎政権が推し進めた行財政改革に際し、林野庁分割という改革案を潰した“功績”にある。このときを境に、官・業が深く結びついた“林野一家”は、旧竹下派から松岡へと急傾斜していった。「自殺の引き金になったのは身近に迫っていた東京地検特捜部の捜査」という見方は、状況的に最も説得力を持つ。だが、ベテランの元秘書が指摘するように、松岡の死から浮かび上がるのは、地元・熊本を中心に巨額のカネを生み出してきた林野の利権だ。林野庁の役人から政界に転じた松岡は、古巣を襲った改革を潰して利権構造の頂点に立った。だが、そのことが最後には松岡に死を選ばせることになった。

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