「一寸先は闇」と言われる政界でも、今回の安倍晋三首相の退陣劇ほど、永田町の住人を心底驚かせた事件はない。 二日前に行なった所信表明演説で「全身全霊をかけて内閣総理大臣の職責を果たしていくことをお誓い申し上げる」と大見得を切ったばかりの首相が突然「辞める」と言い出したのである。「驚いた」と言うより「あきれた」と言う方が正確かもしれない。与野党を問わず、多くの議員が発した第一声は「うそだろ」だった。 そこには、後世の歴史家が振り返って「宜なるかな」と得心するような激しい与党内の権力闘争も、野党との攻防もなかった。退陣劇の舞台にはたった一人、「闘う政治家」という看板も、一国の指導者としての責任も投げ捨てた五十三歳の首相官邸の主が悄然と涙目でたたずんでいるだけだった。 八月中下旬のアジア三カ国歴訪以来、下痢と食欲不振に苦しみ、精根尽き果てた末の九月十二日の退陣表明。若き首相の“異変”を知り執務室に駆けつけた当時の自民党五役、麻生太郎幹事長、二階俊博総務会長、石原伸晃政調会長らを前に、安倍氏は「参議院選挙で厳しい結果が出た後も、改革を止めてはならない、政治空白は許されないとの決意でこれまで全力で取り組んできたが、国際公約でもあるテロとの闘い(インド洋での海上自衛隊の給油活動)の継続が困難な状況にある。自ら身を退くことで局面の転換を図りたい」と力なく語り、午後二時から緊急記者会見を開くことを告げた。会見まであと三十分。「このタイミングはあまりにもまずい」「いったん中断しても給油活動は必ず再開できます」。五役は口々に翻意を促したが、安倍氏はうつむいたまま一言も発さず、最後に「ありがとうございました」と深々と一礼して席を立ち、会見場に向かった。

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