「王朝」に治められたいインド亜大陸の民

執筆者:徳岡孝夫2008年2月号

 一九六四年の、たしか初夏の午後だった。私はカメラマンM君と並んで、パリの街を歩いていた。道端のキオスクの最前列に、夕刊のフロントページが逆さになって見える。私は立ち止まって言った。「おい、Mちゃん。ネルーが死んだ」 こっちも新聞記者である。巨星墜つの報じ方は、フランスも日本も変わらないだろう。異様に大きい第一面の顔写真がパリの夕刊に――チラと見て「死んだな」と判った。 二カ月後、M君と私はニューデリーにいた。独立インドの初代首相、故ネルーの寝室を見せると聞いて、首相公邸へ行った。二十畳ほどの広い寝室の中央に質素なベッドが置いてあり、枕の上にネルーの写真が立てかけられ、ベッドカバーの上には赤いバラと白いジャスミンの花びらが一面に撒いてあった。 執務室に通じる廊下のサイドテーブルには、生前のネルーが会って話した世界の指導者の自署入り写真が一人ずつ額に入って並んでいた。エリザベス女王、ヨハネス二十三世、JFK、フルシチョフなど二十数人。私は日本の政治家、また一九六二年に中印戦争を戦った毛沢東の写真を捜したが、なかった。公邸には、他に参観者はなかった。 ネルーの遺体を焼いた、ジャムナ河畔のシャンティ・ガートにも行った。真夏のインドの真昼である。正方形に煉瓦を積んだだけのガートの百メートルほど手前で車を降りて歩いた。一組の若い男女がガートの前にたたずんでいる。近づくと、サリーを着た女の肩がヒクヒクと動いている。どうしたんだろう。

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