「ボート・ピープル」から40年

執筆者:徳岡孝夫2015年5月11日

 密航船に乗って船と共に沈んだ乗客の正確な数は、リビアの海岸を出たときすでに不明だった。
 通信社の速報には「約900人を超すアフリカ難民を積んだ密航船が、リビアの海岸を出てシチリアに向かう途中に転覆、沈没し……」となっているが、出港地では「そんなものじゃない。1000人はいたはずだ」という声が出ている。とにかく何百人の単位で数えられる女子供を含む難民が、地中海に呑まれて死に、または行方不明になった。
 武器を持つ勢力に迫害され、国民を食わせてくれる政府はなく、隣の部族には襲われる。彼らは命からがら逃げる決心をしたのだろう。
 住み慣れた土地を捨て、なけなしのカネで船賃を払って、ヨーロッパという別世界へ逃げようとしたのだ。命懸けである。
 船を世話してくれるブローカー、またその人を紹介してくれるブローカーのブローカーがいたのだろう。終戦直後のヤミ市時代、秩序を失った日本の社会も、ブローカーによって回っていた。

 

 紀元前8世紀に始まった古代ギリシャのオリンピック競技は、アテネ、スパルタ、コリント、サロニカなど地続きの都市だけでなくキプロスやカルタゴなど地中海を隔てた都市国家からも選手が来た。4年に1度の名誉を競うため、彼らは戦争を休んだ。だが、開催地オリンピアはペロポネソス半島の西端である。道中の安全には十分に用心したことだろう。現代のヨーロッパへの密航船沈没は、古代以後に人類がいかに退化したかを示している。
 イランにホメイニ革命が起きるまで、中東にはガザを除いて曲がりなりにも平和があった。その証拠に1964年、私は日本車を駆ってギリシャからインドまでを走り、傷ひとつ負わなかった。

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