司馬遼太郎ワールドを訪ねて四国を歩く

執筆者:吉崎達彦2015年5月16日

 「若いうちは司馬遼太郎もいいけれども、あればかり読んで歴史を分かったつもりになってしまうのも困ったものだ。人間、ある程度の年齢になったら、池波正太郎でも読んで人生の機微を知る方が、読書としてはずっとためになる」
 上はさる外交官が若い衆に向かって語っていたことで、池波作品をほとんど読んでいない身としては正直、心苦しいのであるが、齢50を過ぎた身になると少なくとも前段部分はよく理解できる。
 かつて民主党政権ができたばかりの頃、若手議員のセンセイ方がやたらと司馬作品を引き合いに出すのを聞いて疎ましく感じたことを思い出す。政務官風情が、「江戸城を落として入ってみたら、米櫃が空だった」などと熱っぽく語っていたものである。今にして思えば、政権交代の高揚感がなせる業だったのだろうが、あの手の勘違いがなければ彼らはもう少しうまくやることができたのではなかったか。つまり司馬ファンばっかりで、池波ファンが少なかったところに民主党政治の限界があったような気がする。

 とはいうものの、日本の若者が司馬作品を読んで熱くならないようでも困ってしまう。筆者が『竜馬がゆく』を読んだのは入社2年目の25歳になってからで、自分でもさすがにこれは遅過ぎたなと感じた。それでも、通勤の電車の中で毎日1冊のペースで読みふけった。続けて『坂の上の雲』を読んだ。月並みであるが、俺も発奮して何かしなきゃいかんと思った。似たような経験を持つ人は少なくないはずである。

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