五年前に警鐘を鳴らしていた碩学

執筆者:田中直毅2008年3月号

「もし私が若ければ……」という台詞は随分聞いた。老齢化による当事者能力の喪失は誰にも到来する。逃げなのか、それとも歴史に対する責任感から将来世代へのはなむけとしてなのか。老人の同じ一言でもその間には大きな隔絶がある。 米ボストン郊外の老人施設にマサチューセッツ工科大学の教授だったチャールズ・キンドルバーガーを訪れたのは二〇〇二年秋のことだ。小奇麗な施設だったが、老人だけが住人の集合住宅施設には、やはり無関心を装った彼らの視線があった。「気付きましたか。カードゲームに打ち興ずるようにしているが、彼らは私の訪問客に合点がいかないのです」。現役を退いた人々にとって、取材依頼が相次ぐ人物が同一の住処の中に存在すること自体が面白くないのだと老碩学はほほえんだ。新しい発見をした少年のようなくりくりしたまなざしが印象的だった。 私が彼に会ったのは、彼の米国の新聞への寄稿に刺激されてである。「米国の資源配分の歪みは住宅投資において著しい。根源にはファニー・メイやフレディ・マックという、住宅抵当証券を買い込む機関の発行する債務証書を、相対的に安い金利で投資家が引きとるという現実がある。投資家の側に、米国連邦政府による債務保証付与の誤解が根強く存在するからだ。また、債務増が容易なこれら政府支援企業(GSE)の企業統治には大きな欠陥がある。他の上場企業並みの統治もない。もし私が若ければ……」という米国経済の病根への鋭い指摘に、経済ジャーナリズムの一角は色めき立った。

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