少し前のことになるが、自民党の勉強会で百田尚樹氏が「沖縄の2紙はつぶさないといけない」と発言し、大西英男衆院議員が「懲らしめる」と同調したことに関して、「言論弾圧だ」と、批判の声が高まった。ここで言う「言論弾圧」が直ちに効果を発揮することはないように思えるが、古代は大変だった。独裁者による言論弾圧なら、「文句さえ言えない」のであって、「文句を言った者は消されてしまう」のである。政権批判は命がけだったのだ。古代版言論弾圧と、政権批判の歴史をふり返ろう。

『日本書紀』が抹殺した歴史

 連載61話で語ったように、『竹取物語』も、平安時代に独裁権力を握った藤原氏を批判する目的で書かれた(2015年4月7日「『家具屋姫』よりも深かった『かぐや姫』の父への怨念」参照)。登場する貴公子たちは実在の人物と名前や境遇がそっくりだったが、もっとも卑怯な人物「くらもちの皇子」だけがモデルと目される藤原不比等と結びつかなかった。直接藤原批判をすれば、作者は捕縛されたのだろう。
 藤原氏は突然変異のような存在で、ヤマト建国来尊重されてきた合議体制を鼻で笑い、あらゆる手段を駆使して、政敵を闇に葬った。楯突く者、邪魔になった者は、皇族でも容赦しなかった。たとえば長屋王は有力な皇位継承候補だったが、藤原氏のやり方に抗議したために、一家もろとも滅亡に追い込まれている(729)。助かったのは、藤原出身の夫人とその子だけだ。
 権力者・藤原氏は、暴走した。橘奈良麻呂の変(757)で藤原不比等の孫の藤原仲麻呂は、天皇が首謀者を許そうとして死刑にできなかったため、拷問で数人をなぶり殺しにしてしまった。結局この乱によって443名が処罰され、反藤原派は、ほぼ潰滅した。
 平安時代に入り、承和の変(842)と応天門の変(866)で旧豪族勢は、ほぼ没落し、藤原氏の長者は「欠けることのない満月」と豪語した。藤原氏に対してはモノが言えない世となって行ったのだ。
 現存最古の正史(朝廷の編纂した正式な歴史書)『日本書紀』は西暦720年に編纂されたが、この段階で藤原不比等はほぼ全権を掌握していて、だからこそ『日本書紀』は、藤原不比等の父の中臣鎌足を古代最大の英雄と絶賛しているわけである。
 多くの豪族、貴族、皇族は、藤原氏を恐れ、嫌っていたから、このあとに記された稗史(はいし、民間の歴史書)は、『日本書紀』によって抹殺された歴史の真相を暴露するために、ありとあらゆる手段を用いている。権力者の目をかいくぐって、真実をのちの時代に伝えようとした。多くの文書に、涙ぐましい努力がみてとれる。

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