歴史を動かした「東国の軍団」

執筆者:関裕二2015年8月13日

 人類が戦争を始めたのは農業を選択したことがきっかけだったのだそうだ(コリン・タッジ著『農業は人類の原罪である』新潮社刊)。農業は余剰を生みだし人口爆発を誘発し、民は新たな土地を求めて隣人と争い始めたのだ。人びとは強い指導者と他者を攻撃するための大義名分=「正義」を求めたが、いまだに、世界中が自国に都合の良い「正義」を主張しあっているのだから、当分、人類は戦争から解放されないだろう。それぞれに正義があるのだとすれば、敗れた者の歴史が正当に伝わっているとは限らない。今回は「東国の軍団」にスポットを当てたい。

ヤマト建国直後からの関係

 天武13年(684)閏4月5日、天武天皇は「凡そ政要は、軍事なり」と唱えた。武力の拡充は、差し迫った課題だった。
 直前まで、世は騒然としていた。天武(大海人皇子)の兄・中大兄皇子(天智)は古代最大の対外戦・白村江の戦い(663)に敗れ、日本は滅亡の危機に瀕していた。ようやく立ち直ったものの、わずか9年後に、壬申の乱(672)が勃発した。古代最大の内乱を制し即位した天武天皇は、律令整備を急ぎ、大鉈を振るった。急進的な改革事業に反発する者も現れたのだろう。天武は強権を発動し、軍備を整えた。そしてなぜか天武は、「東国の軍事力」を重視した。その理由を知るために、時代を少し溯ろう。
 稲作をはじめた弥生時代は、混乱の時代だった。2世紀には中国の史料に「倭国大乱」と記録されるような状態に陥った。ところが3世紀に、ヤマトの纏向(まきむく、桜井市)に巨大都市が出現し、その後ヤマトが建国されると、争乱は収拾された。各地の首長がゆるやかな連合を組むことによって、平和な時代が到来したと考えられている。
 ではこの時、大王(天皇)やヤマト政権(朝廷)の軍隊は誕生していたのだろうか。
 長い間大王は祭司王で、強大な権力をもたず、大王の軍隊は存在しなかった。ヤマト政権は5世紀に朝鮮半島に出兵し、南下政策をとる高句麗と対峙するが、この段階になっても、諸豪族の私兵に頼っていた。だから、5世紀後半になると、中央集権国家の建設が急がれるようになったのだ。そしてその過程で、朝廷が注目したのが東国だった。まずは大王家の直轄領(屯倉=みやけ)を設け、もとは有力な豪族だった国造(くにのみやつこ)は子弟を都に差し出した。これが舎人(とねり)と呼ばれる人びとで、王家の身辺に近侍し護衛にあたった。
 そして朝鮮半島への出兵が増えると、やはり東国の軍団が狩り出されるようになった。また物部氏は、いち早く馬の重要性に気づき、配下の渡来人を信濃に移住させ、馬の飼育を行なった。「長野」の地名は、河内の渡来系豪族・長野氏に由来する。ここに、東国の騎馬軍団の原型が誕生したのだ。さらに7世紀の蘇我系政権は東国の蝦夷(えみし)を都に招いては、饗応し懐柔した。蘇我氏も、身辺警護に東方儐従者(あずまのしとべ)を用いた。
 このようにヤマト政権と東国の関係は、建国直後から始まっていた。ヤマト政権が送り込んだ移民は先住の民と融合し、それまで手のつけられなかった土地を開墾した。これが功を奏し、東国は豊かになった。だから、東国の民はヤマトの政権に従順だった。また、実質的に政権を運営していた物部氏や蘇我氏も、東国との結びつきを強め、さらに蘇我系の大海人皇子(天武)は、東国の軍事力を借りて、玉座を奪い取った。東国の軍団は、政権の行方を左右するほどのパワーを持ち始めていたのである。

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