ギャンブルとバブルと破綻処理について

執筆者:吉崎達彦2015年9月5日

 遊民経済学を語っていくと、どこかで大真面目にこの問題と向き合わなければならない。ギャンブルのことである。

「ギャンブルは遊びの一種か」
「ギャンブルは経済行為の一部か否か」
「紳士の嗜みか、公序良俗を害するものか」

 社会学の領域において、「遊び」をテーマにした古典的名著が2つある。ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』である。前者はギャンブルをほとんど無視し、後者は遊戯の1分野として分析した。
 すなわち、オランダの歴史学者たるホイジンガは、「文明とは遊ぶこと也」と喝破したのであるが、遊戯というものは本来、物質的な利益を求めるのものではない。従ってギャンブルは偽りの遊戯であり、文化の発展には貢献しないと切り捨てた。

 これに対し、フランスの批評家であるカイヨワはギャンブルを遊戯の一分野として受け入れた。遊びを構成するアゴーン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリー(物まね)、イリンクス(めまい)という4要素のうち、アレア=「偶然に基づく遊戯」がギャンブルとなる。ただし面白いゲームというものは、運(アレア)と技術(アゴーン)のバランスがとれているもので、どうかすると依存症(イリンクス)になったりもする。このように遊びとは、4つの要素が相互に絡まりあうものだ、という指摘が画期的であった。
 筆者は元が一橋大学社会学部卒なので、若い頃からこの手の議論が嫌いではない。が、同時にこれら屁理屈の無意味さも、理解しているつもりである。問題はもっと単純で、ホイジンガは「打たない人」であって、カイヨワは「打つ人」であった。たぶんそれだけの違いなのであろう。

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