敗戦国の指導者たる吉田茂にとって最重要なのが対米関係のハンドリングであったことは、当然である。だからと言って外交的バランス感覚に長けた吉田が西欧の民主主義諸国の動向に無関心であり得たはずがなかった。外交の虫は早くからうずいていた。しかし、政権の最末期にいたるまでに日本国総理として吉田が訪問した外国は、米国ただ一国であった。今日から見ると信じ難い事実だが、当時の国内事情に国際情勢をあわせ考えると、そうならざるを得なかったものと思われる。

 

「大西洋の往復」

 吉田が首相として戦後初の外遊に出たのは、政権基盤がすでにガタついていた1954年9月下旬のことである。ただ、そのスケジュールを知ると、今日の人は驚倒するのではあるまいか。それは驚くなかれ、なんと7カ国歴訪の旅となった。しかも、その旅程はまことに不思議なものだった。歴訪順を挙げると、カナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、ヴァチカン、英国、そして米国である。まず吉田と随行団は羽田を東に向けて飛びたつ。搭乗機はJALやANAではなかった。カナダのCPAL(カナダ太平洋航空=現エアカナダ)特別機である。わが国では日本航空が1953年に誕生していたものの、それは国内線に限られていた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。