最近、幕末から明治期に中国を歩いた日本人の体験記を集中的に読んでいるが、当時の人々の視点を通して現在を考えることの面白さを感じている。

 たとえば明治前半、日本人が行く先々の街、それも北京とか上海などの大都会のみならず沿海部の地方都市でも、すでに10年も20年も住みつき中国人社会に溶け込み、中国語を自由に操るイギリス、フランス、ロシア、アメリカ、プロシャ人などの商人や宣教師がいたこと。明治も半ばを過ぎる頃になって初めて内陸部に足を踏み入れるようになる日本人が知ったのは、安くて頑丈であるからとドイツ製品が尊ばれていたこと。前者でいうなら、こと近代の中国進出に関しては日本は欧米列強に較べ後発組であったこと。後者は現在の中国とドイツの経済関係を暗示しているようにも思える。加えるなら、現在の日本で見られる中国批判の“原型”が、すでに見られていた――などである。

 

明治期「漢学者」のオーストラリア報告

 そんな中に岡千仭(天保4~大正3=1833~1914年)が著した『觀光紀游』がある。岡の略歴を記すと、仙台藩士で幕末から明治期を代表する漢学者。幕府が設けた最高学府である昌平黌出身の逸材で、尊王攘夷論の急先鋒の1人。門人には清川八郎、本間精一など。戊辰戦争に際しては奥羽越列藩同盟に反対した罪により、仙台藩によって投獄される。維新後は明治政府や東京府に勤務の後、旧仙台藩邸に私塾(綏猷堂)を開き、福本日南、尾崎紅葉、片山潜などを教育。福沢諭吉は友人の1人。晩年は大陸経綸を志し、李鴻章に面と向って辛辣な批判を行っている。もちろん筆談である。

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