朝廷の正月の大切な儀礼のひとつに「朝賀(ちょうが)」がある。皇太子以下の諸臣が天皇に新年のお祝いを奏上するのだ。そしてこの時、なぜか「物部氏」が重要な役目を負っていた。
 たとえば『日本書紀』持統4年(690)正月元日条に物部麻呂(のちに石上=いそのかみの=麻呂と改める)が大盾を立てたとある。楯は武具だが、呪術的な意味が込められていた。『続日本紀』天平14年(742)正月元日条にも、百官朝賀の場で石上と榎井(物部系)の両氏が大楯と槍を立てたとある。
 正月だけではない。『延喜式』には、大嘗祭に際し、やはり石上と榎井の両氏が楯と戟(槍)を立てると記される。『続日本紀』や『古語拾遺(こごしゅうい)』にも同様の記事が載る。このような例は、他の豪族には見られない。

物部氏の祭祀様式を継承?

 なぜ物部氏は、特別な存在だったのだろう。古代最大の豪族だったからなのか。
 物部氏と言えば、「つわもの」を束ねていたという印象が強い。それも間違いではないが、神祇祭祀(じんぎさいし)や天皇との結びつきも強い。第10代崇神天皇の時代に、物部氏の祖の伊香色雄(いかがしこお)が神を祀る重要な役割を負ったと『日本書紀』は言う。崇神天皇は実在の初代王と考えられているから、この記事は無視できない。
 物部系の歴史書『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』も、物部氏の始祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)がもたらした瑞宝(みづのたから)を国の鎮めにしたといい、これを祀るのが鎮魂祭(たましずめのまつり。新嘗祭の前日天皇が執り行い、天皇の霊力を高める)だと言っている。
 神道は天皇家の信仰形態と信じられている。しかし天皇は、物部氏の祭祀様式をそのまま継承していたのではないかと疑われている(吉野裕子『大嘗祭』弘文堂)。事実、王家の祭祀形態を守り続けてきた伯家(はっけ)神道は、物部氏の祓詞(はらいのことば。一二三四五六七八九十布瑠部由良由良止布瑠部)を唱えている。
 物部氏とは何者なのだろう。なぜ天皇や祭祀とかかわってくるのだろう。

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