まことの弱法師(1)

執筆者:徳岡孝夫2016年4月16日

「晴ーれた空、そーよぐ風」ラジオの唄は夏空のように朗らかだが、ハワイに行ける戦後日本人はその頃まだゼロに等しかった。
 生きて終戦を迎えたのさえ見付けもので、アメリカなんぞへ行こうとしてもカネがない、厳しい規則ずくめ。ビザを取る前に1人ずつ赤坂の米大使館別館(旧満鉄ビル)に出頭し、米人領事の面接テストを受けねばならなかった。
 数少ない合格者であった三島由紀夫は「貴君は作家だそうだがスクールは?」と問われて戸惑った。
 向こうは硯友社、自然主義などの流派、結社を尋ねたのを、スクールならと勘違いし「東京インペリアル・ユニバーシティ」と答え、それでも査証が出たという。
 私が米大使館に行ったのは昭和35(1960)年、今や伝説的になった60年安保の年である。まず天文学的競争率の筆記試験がある。
 難関に挑む私は30歳。支局勤務を終え、大阪社会部で最も下っ端のサツ回り。溜り場は、これも大阪では伝説的になった動物園記者クラブであった。動物園事務所の裏手にあるボロ小屋のこと。

 電話はないが、裏門を出ると通天閣のある「新世界」の2番物上映館やホルモン焼き、バナナの叩き売りが、ひしめく土地柄である。
 クラブの空調はチンパンジーのシュージーちゃんの寝室と連結しているから、夏が来てもチンパンジーが暑がるまで記者クラブにも冷房は入らない。
「フルブライトの試験、受けてくるわ。事件あったら頼む」
 出かける私に、誰かが声をかけた。「徳やん、土性骨て、英語でどない言うねん」
 さぁ。私は口ごもった。
 そのときY社のN君がコイコイ博打の手を止め、一喝した。
「バッカもん。バックボーンに決まっとるやないか。そんな英語も知らんで、フルブライトに通る気か。ま、頑張ってこいや」
 私は仲間の激励を背に受け、市電で天六の関西大学へ行った。演説会場みたいな大教室に満員の受験者だった。うわっ、この中からたった3人か。だがこっちも2度落ちて3年目の挑戦だった。(『新潮45』2016年4月号より転載)

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