海自護衛艦「カムラン湾寄港」の読み方

執筆者:伊藤俊幸2016年4月22日

 海上自衛隊の護衛艦「ありあけ」と「せとぎり」が4月12日、南シナ海を臨むベトナムの“軍事要衝”カムラン湾に寄港した。日本の艦艇寄港は、戦後初めてのことだ。
昨年11月にハノイで行われた日越防衛相会談では、航行の自由の重要性を訴えていくことで一致し、海自艦艇を寄港させることで合意した。寄港したのが、毎年行っている哨戒機のパイロットや戦術飛行士の要員となる飛行幹部候補生を乗せた練習航海部隊とはいえ、それが早くも実現したことになるわけだが、そもそもなぜこの寄港が重要な意味を持つのか。それを読み解くには、カムラン湾と中国の南シナ海進出との深い関連を見ていく必要がある。

「力の空白」に乗じる中国

 カムラン湾はベトナム中南部に位置する天然の良港だ。その東海上には南沙(スプラトリー)諸島、北東には西沙(パラセル)諸島が、そして北には中国の海南島があり、中国や南シナ海、インドシナ半島を見渡せる絶好の位置にある。それゆえフランス植民地時代から軍事拠点として用いられてきた。

 

 一方、1949年に成立した中華人民共和国は、すぐさま南シナ海進出を目論む。まず狙ったのは西沙諸島。だが目障りなのは、カムラン湾から南シナ海を睨む大国の存在だ。当時は、インドシナ半島に戻ってきたばかりのフランスだった。
 ところが1950年代、フランスがインドシナ戦争に敗北してカムラン湾から撤退すると、その「力の空白」に乗じて、中国は西沙諸島の東半分を占拠した。だが動きはここまで。ベトナム戦争が始まり、南ベトナムを支援するアメリカがカムラン湾を使用するようになり、「力の空白」が埋められたからだ。
 そのアメリカも、73年に南ベトナムから撤退すると翌年中国は、西沙諸島の西部に艦艇部隊を派遣、交戦の後、西沙諸島全域を占拠した。これもまた、カムラン湾の「力の空白」に乗じたものだった。
 75年のベトナム戦争終結後、カムラン湾を軍事基地として利用したのはソ連だったが、80年代半ばになって駐留ソ連軍が縮小し始めると、中国は南沙諸島への進出を開始し、88年には諸島の6カ所を占拠。2002年のロシア軍撤退を挟み、南シナ海への進出にいっそうの拍車をかけ、現在に至る。カムラン湾における「パワー」の不在が、中国の野心を現実のものにしているのだ。

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