2016年6月初旬、キリンカップサッカーが5年ぶりに開催された。日本サッカー協会(JFA)が開催する国際Aマッチだ。
 サッカー人気はJリーグ勃興期と比べれば下降気味だが、それでも熱心なファンが贔屓のJリーグチームの試合に駆けつけ、応援合戦をくり広げている。サッカーを国民的スポーツに引き上げた日本サッカー協会の手腕は、高く評価されてよいと思う。
 その日本サッカー協会のシンボルマークが3本足のヤタカラス(頭八咫烏)ということは、つとに名高い。紀伊半島(熊野)の山中で道に迷った神武天皇を導いた功労者である。
 ではなぜ、ヤマト建国の時代の霊鳥を選んだのだろう。Jリーグが発足した時、知人の全共闘世代の編集者は「これは国威高揚のための仕掛けにちがいない」と憤慨していたが、大きな勘違いだ。すでに昭和6年(1931)に、漢学者・内野台嶺(たいれい)の発案で、ヤタカラスに決まっていた。日本サッカー育ての親・中村覚之助の故郷が和歌山県那智勝浦町で、渚宮神社(熊野三所大神社=くまのさんしょおおみわしゃ=)の氏子だった。人望厚かった中村覚之助だったが、早逝してしまい、そこで大学の後輩の内野台嶺は、熊野のヤタカラスを協会のシンボルに用いたというのが、本当のところらしい。

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