「Brexit (英国のEU離脱)は、まずあり得ないよ」。プライベートバンカーをしていて、英国ともつながりが深いスイス人の友人は、ほんの2週間前にこう言い切っていた。情勢の読みと分析が鋭い彼は、リーマンショックや、ユーロ危機でも顧客に損を出させなかった評判を持つ。そんな彼でも読み切れなかった今回の英国人の国民投票の結果は、大陸にいるヨーロッパ人の大半にとっては、「まさか」というのが正直なところだと思う。
 しかし今から思い出してみれば、昨年英国バーミンガム市を訪れたときに、今回の結果につながるような時代の変化の兆しは、空気の中に存在していた。EU離脱へと向かわせた英国民の不満は、見えないかたちで少しずつ沈殿していて、6月23日にマグマのように吹き出てきたということなのだろう。

「バーミンガム・モデル」

 ロンドンに次ぐ英国第2の都市と言われるバーミンガムを、最初に訪れたのは2000年代だ。その当時は、移民と受け入れ社会が理想的に上手くいっている例として、英国人が「バーミンガム・モデル」という言葉を誇らしげに語るのを、たびたび耳にした。18世紀まで特徴のない村だったバーミンガムは、産業革命後に鉄鋼、自動車、航空機、化学薬品などの重工業で大発展を遂げた工業都市である。仕事を求めて移住したパキスタン、インド人など、住民の中で移民の占める割合が、英国でも群を抜いて高い。2001年の統計(バーミンガム市発表)では、市の人口のうち、英国人白人が65.6%、パキスタン人などエスニックグループが34.3%だった。
 当時聞いた話では、バーミンガムでは、もともとの地域住民と移民が、お互いの文化を尊重し合い、理解し合えるような活動が工夫されていて、その成果を象徴するのが、1990年代の再開発の目玉として建設されたバーミンガム・シンフォニーホールのコンサートだった。ふつう、クラシックのコンサートの聴衆といえば、ほぼ中産階級以上の白人である。ところが、ここでのコンサートだけは、ヒジャブを頭に被ったイスラム教の女性、インドやパキスタンの男性の姿が、英国人と混じって半数以上を占めていた。コンサートのメインプログラムがたとえば「海」だとすると、その前にアジアの民族楽器で「海」をテーマにしたミニコンサートやトークを行っていて、「クラシック音楽」という「ヨーロッパの音楽」を一方的に演奏するだけではなく、それを切り口にエスニックグループの文化と「対話」するような機会を心がけているというのだ。
 重工業都市であるバーミンガムとその周辺は、昔は煤煙で空が覆われ、太陽も見えなかったことから「ブラックカントリー」と呼ばれていて、1970年代には自動車産業の不振で失業率が非常に高く、「希望のない街 (Hopeless City)」という異名まで取っていた。その都市が製造業からサービス業へと、街をあげて構造転換を図り、一大コンベンションセンターを中心とした街の再生に取り組み、お互い豊かになるような多様化社会を目指す姿は、移民社会の1つの理想として、とても心を打つものだった。

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