「天皇の生前退位」を歴史の中で考える

執筆者:関裕二2016年7月26日
7月25日、那須の御用邸へ出発される天皇、皇后両陛下(JR東京駅)(C)時事

 今上天皇の生前退位の是非をめぐって、議論が交わされ、波紋が広がっている。皇室典範に退位の規定はないが、ご高齢の天皇陛下に激務を強要するのもはばかられる……。ここは思案のしどころだ。
 様々な意見がある。皇室典範を改めれば、権力者が恣意的に運用し、退位を強要する事態も起きかねないと危惧する人たち。皇太子殿下を摂政に立てて、執務を代行していただいてはどうかという案もあるが、結論はなかなか出そうにない。
 歴史をふり返れば、天皇の譲位は珍しいことではなかった。ここ200年、譲位はないが、それ以前、約半数の天皇は、生前退位をされていたのだ。
 古代も、譲位は頻繁に行われていた。7世紀から8世紀、そして平安時代後期に、ピークがあり、それぞれに異なる事情が隠されていた。前半は「利用される王家の悲劇」であり、後半は「暴走する王家」である。

権力闘争に翻弄された女帝たち

 最初の譲位は、皇極4年(645)6月のことだ。飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)大極殿で蘇我入鹿が殺され、この直後、皇極天皇は弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲り、孝徳天皇が亡くなると、ふたたび即位した(斉明天皇。これを重祚という)。
 なぜ皇極は2度担ぎ上げられたのだろう。相対する勢力それぞれが、皇極天皇の利用価値を知っていて(物部氏の強力な後押しがあったと筆者はみる)、主導権争いに利用したのだ。最初が親蘇我政権、次が反蘇我政権だ。
 権力闘争に翻弄された女帝の悲劇が、ここにある。
 このあと、反蘇我派の藤原氏が次第に力をつけ、天皇の外戚になることで、確固たる地位を築いていく。この過程で、持統天皇、元明天皇、元正天皇ら女帝が次々と立ち、そして譲位していく。藤原不比等の孫・首皇子(聖武天皇)即位までの「時間稼ぎ」「中継ぎ」と考えられている。要は、藤原氏に利用されたのだ。
 ところで、元明天皇は霊亀元年(715)に娘(元正天皇)に皇位を譲っているが、その際、不満を漏らしていた。「この俗世の煩わしさから逃れたい」「履き物を脱ぎ捨てるように、皇位をけりたい」と言い放っている。権力者(藤原氏)に利用されてきたことが、よほど腹に据えかねていたのだろう。

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