あえてネクタイをしてみよう

執筆者:成毛眞2016年8月4日

 イギリスがEUからの離脱を決めたのは、間違っていなかったと私は思う。そもそもEUという組織自体に無理があるのだ。ギリシャの経済が悪くドラクマが安くなれば、それは観光客を呼び込むことになるので、観光立国ギリシャの経済はここまで悪くならなかっただろう。一方でEUなかりせばマルクは高くなりすぎて、ドイツはここまで技術大国として大きな顔ができていなかったに違いない。ドイツは実力以上に安いユーロのおかげで好調で、ギリシャは実力以上に高いユーロのせいで混乱している。ビジネスモデルの異なる国が結びつき、互いに互いの倫理観を押しつけ合おうとしてきたのだから、EUが破綻するのは当然だ。その意味で今回のイギリスの決断は正しいと思うのだが、しかし、それはそれとして、国民投票の結果には驚き、あきれた。
 その感覚は、アメリカ大統領選の予備選を眺めているときと同じだ。最初は面白がりながら、そのうち自制が働くだろうと思って見ているのだ。ところがいつまで経ってもその自制の萌芽さえ見えず、あれよあれよという間に面白いだけでは済まなくなっていく。
 21世紀の日本も何度か、ポピュリズムで痛い目にあってきた。勢いに乗って面白がるだけのつもりが、いつの間にか傷を負っていて、面白がるどころではないことに気付くのだ。ただ、日本の場合、それは致命傷にはならなかった。「ああ、危なかった」と反省し、やはりコンサバに生きなくてはと思うものの、それでもまた調子に乗り、当然のことながら傷を負い、「命は無事で良かった」と胸をなで下ろす。それを繰り返してきた。
 ふと気付くと、低い位置にではあるが、日本は安定している。それは円の安定ぶりを見れば明白だ。
 さて、クールビズという言葉が使われ出したのは2005年のことだ。蒸し暑い夏にネクタイを締めジャケットを羽織っているのは、いくらなんでもおかしいということに、ようやく政府も気付き、夏は職場でも軽装で過ごそうと呼びかけた。それ以前から夏はアロハシャツと決めていた私は何を今さらと思ったが、あれから10年以上経って周囲を見渡すと、クールビズも行き過ぎではないかと思うことが増えてきた。
 最近は、報道番組のコメンテーターですらノージャケット、ノーネクタイが珍しくなくなっている。周囲がジャケットとネクタイ姿ばかりなら、それは確かに個性的で先鋭的だった。しかし、世の中全体がジャケットを着ずネクタイをしなくなった今となっては、平凡であるどころか、軽薄ですらある。そんな外見では、なるほどこの人の話を聞いてみたいとは思わない。
 それを他山の石として、私はこの夏、ネクタイだけはしてみようかと思っている。周りがしていないから、それだけでカチッとして見えることは間違いない。
 腕時計についても同じだ。最近は携帯電話があるからと腕時計をしない人が多い。しかし、クールビズで半袖の上に腕時計をしていないと、あまりにしまりがない。腕時計はほどよいアクセントなのだ。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。