まことの弱法師(5)

執筆者:徳岡孝夫2016年8月20日

 幼時に上海へ3度も行った。父から「ケフカヘル」と電報が来るたび税関まで迎えに行った。波止場の風景には神戸で馴染んでいたのに、横浜・大桟橋の見送りには驚いた。見送り人のいないのは、身重の妻を大阪に置いてきた私くらいらしかった。
 船でハワイに行きましたと言うと、人は必ず「何日かかりました」と問う。これがすぐには答えられない質問である。
 航海室のドアに「本日は23時間です」と貼り紙が出る。次の日も同じ紙が出る。そのうちに「明日はもう1度、今日です」という掲示になる。ホノルルで下船する頃には、頭の中がゴチャゴチャになっている。日付変更線を越したからである。
 ちょっと汚い話だが、伯爵夫人が船で赤道を越えた。
「見えますか」「見えますとも」
 船長は双眼鏡を貸した。伯爵夫人が見ている隙に夫人の髪を1本抜いて、双眼鏡の前にかざした。
「あ、見えます。見えます。ラクダが一頭、赤道を歩いてますわ」
 3段ベッドに寝て何日目だかにホノルル港に着いた。入国手続き前にメディカル・チェックがある。フルブライターは甲板に1列になり、聖路加病院撮影(他の病院のは不可)の胸部X線フイルムを広げ、同時に目と耳を検査された。戦前のアメリカ人は、日系移民を見ると肺病と目脂、耳だれを連想したのだろう。
 ハワイ大学のスミエ・マケーブですという女性が現れ、いきなり私に質問した。
「あらミスター・トクオカ。ベビーは産まれたの。まだ? 御心配ね」
 日本人の顔で、むろんすべて英語である。驚くというより呆気に取られた。しばし返事が出ない。
 東京を発つ前、各自の近況を出しておいた。小さい写真、証明書用のを添えておいた。何という特徴のない二十数人の名前と顔と近況を、夫人は見て憶えた。
 次から次にフルブライターの名を呼び、彼女は会話を繋いでいく。このために何度夜更かししたのだろう。米国への第1歩で、私は彼らの勤勉の恐るべきを知った。(『新潮45』2016年8月号より転載)

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