人生とは巡り合わせである

執筆者:成毛眞2016年12月22日

 私は2歳の時に、かつて逓信省の技術者だった父を亡くした。肺炎だったという。残された母は私を育てるため、私を連れて札幌を出て、東京へやってきた。学生が暮らす一軒家に住み込んで、まかないの仕事をはじめたのだ。
 その家を借りていたのは、おなじく北海道出身のOさんとTさんで、二人はそれぞれ東大工学部と慶大経済学部に通う大学生だった。彼らは多くの友人たちを家に招いていた。そのなかに戸坂さんという大学生もいた。
 Oさんと戸坂さんは時折、まだ幼稚園児の私を駅前の居酒屋に連れて行った。男子大学生が2人で未就学児を居酒屋に連れて行く様子が周囲にどう映ったかはわからないし、そもそも2人がどうして私を連れ出そうと思ったのかもわからない。しかし私はその居酒屋の、座面の真ん中に穴の開いた緑色のスツールをよく覚えている。
 OさんとTさんが大学を卒業したので、私と母は北海道へ戻った。
 時は流れ、私は都内の大学を卒業し、北海道で自動車部品メーカーに就職した。しかし、転勤先の大阪の水が合わず都内の出版社に転職した。そして、その出版社から出向させられた先の企業が、当時は数名の従業員しかいないマイクロソフトの代理店だったのだ。それから10年、マイクロソフトは日本支社を開設し、私は社長になった。緑色のスツールのある居酒屋へ私を連れて行ってくれていた大学生たちのことはすっかり忘れてしまっていた。
 今から20年前、1996年のことである。マイクロソフトは前年に発売したWindows 95が売れに売れ、日本のパソコンメーカーとの関係をより深める時期を迎えていた。
 ある日、私は三田にあるNEC本社ビルの高層フロアで、同社のパソコン事業の面々とミーティングをしていた。話が一段落した時、先方の責任者が「ほかの者は外してくれ」と部下に命じた。何事かと思ったら、今度は「そちらも成毛さん以外は外して貰えないか」と言う。つまり、2人きりで話がしたいというのだ。私も焦ったし、周りも焦った。大取引先であるNECから、どんなクレームを寄せられるのかと戦慄したのだ。
 人払いを終えると、先方はこう切り出した。
「成毛さん、子どもの頃は新田という姓じゃなかった?」
 成毛は、私が小学校5年生の時に母が再婚してからの姓、つまり成毛というのは継父の名字だ。私が新田姓だった期間は10年程しかない。
 あっけにとられていると目の前の人物は「Oさんを覚えていないか」などと言う。問いかけてきたのはほかでもない戸坂さん。その後、NECの専務となりNECエレクトロニクス社長も歴任した戸坂馨さんだったのだ。私が頷いたその瞬間から、戸坂さんが私を「おまえさあ」などと呼ぶようになったのは当然のことである。

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