チベットを手放さない北京の「二つの理由」

執筆者:徳岡孝夫2008年5月号

 日本の男は「西域」と聞くと、明治いらい、なぜか心がときめく。敦煌、楼蘭、崑崙山脈、タクラマカン砂漠、ラサ、ホータンなどという地名に憧れる。どっちを向いて歩いてもすぐ海になって砂浜がある島国の民には、西域は砂あらしの晴れ間の蜃気楼のように魅力ある「無限」と感じられたからだろう。 NHKの「シルクロード」は、その幻想をさらに強めた。中国・中央電視台の協力を得て作られた番組は、東トルキスタン分離独立運動などには一言も触れず、西域の人々を砂漠を背に煙管をふかしながら一日を送る爺さんの国として描いた。 シナ人にとっても、西域は定義の怪しい空間である。紀元一世紀の『漢書』に早くも名が出ているが、普通は玉門関、陽関より西の広い夷狄の地を指した。日本人が好んだ別離の歌「更ニ尽クセ一杯ノ酒、西ノ方、陽関ヲ出ヅレバ故人ナカラン」の陽関である。ただし彼らの辺境の知識も時代によって伸び縮みし、チベットも西域に組み込まれる時期があった。いずれにしても西域は、漢字の通用しない地域である。文字が違えば文化も違う。 いまの中国は、唯物教のマルクス・レーニン派を信心しているようだが、チベット人は彼らなりの仏教すなわちラマ教を信じている。インドと縁が深い。ダライ・ラマは転生の活仏で、その「生まれ替わり」の思想は日本人にも馴染みがある。ラマ僧は聖地参詣に行くとき、五体投地しながら進む。バタッと全身を地に投げ出し、遠路を刻みながら行く。奈良・東大寺二月堂の修二会(お水取り)でも、僧たちは五体投地する。

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