復元された平城宮東院庭園(皇太子の宮に造られた庭園)。平城宮の高貴な女性たちの暗闘が繰り広げられていたのかもしれない(筆者撮影)

 

 岐阜県養老郡養老町で「養老改元1300年祭」が行われている(12月23日まで)。
 平城京遷都(710)の7年後、元正女帝は美濃を行幸し、「多度山(たどさん)の美泉(よきいづみ)」を御覧になり、改元を思いついた。この美泉こそ、養老町の養老の滝と考えられている。元正天皇は「美泉は、老人を養う水の精霊であり、めでたいしるしだから、霊亀3年を改めて、養老元年にせよ」と命じている。
 ところで律令制度完成後の年号は、「大宝」「慶雲」「和銅」「霊亀」「養老」「神亀」「天平」とつながっていく。この頃、元明、元正2代の女帝が続き、『続日本紀』は穏やかな時代と記しているが、実際には血なまぐさい主導権争いが勃発していた。
 急速に力をつけ、実権を握りつつあった藤原不比等は、娘・宮子と文武天皇との間に生まれた首皇子(おびとのみこ、のちの聖武天皇)を皇位につけることに執念を燃やし、政敵をワナにはめ排除してしまった。外戚の地位を手に入れることで、盤石な体制を築こうという魂胆だ。
 その過程で、藤原氏に利用されとばっちりを受けたのが、皇位継承問題に深くかかわった政権中枢の女性たちだった。養老改元を宣言した元正女帝もそのひとりで、独身のまま生涯を閉じたのは、藤原氏の力が増す中、首皇子のライバルとなる御子を生み落とすわけにはいかなかったからだ。奈良時代の光と影が、ここにある。

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