奈良県橿原市にある入鹿神社(筆者撮影)

 

 皇極4年6月12日に蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)大極殿(だいごくでん)(奈良県高市郡明日香村)で暗殺された。西暦に直すと、645年7月10日のことで、梅雨末期に勃発した政変だった。事実『日本書紀』に、次の記事がある。

「この日雨が降り、宮の庭(入鹿暗殺現場)は溢れた水に浸かり、蘇我入鹿の遺骸に筵(むしろ)と蔀(しとみ、屏風)をかぶせた……」

 大悪人の無残な末路、といったところか。

『日本書記』の意地悪い暗喩

 ところで、溢れるほどの雨というのは、本当なのだろうか。たしかに当時の飛鳥川は、想像以上の暴れ川だったらしく、また飛鳥一帯も都が置かれる以前は、湿地帯だった。「アスカ」は接頭語の「ア」に中洲や湿地帯を意味する「スカ」を足した地名だ。とすれば、飛鳥の水はけは悪かったのだろう。

 そうは言っても、蘇我入鹿暗殺事件の最中に宮に水が溢れたという話、にわかには信じられない。これは、『日本書紀』の意地の悪い「暗喩」ではなかろうか。

 手のつけられない湿地帯を開墾し、都にふさわしい土地に造り変えたのは蘇我氏全盛期の政権で、彼らは治水事業と並行して、豊富な水を利用した庭園や漏刻(水時計)を整えていった。「飛鳥の都」は蘇我政権の手柄だったのである。

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