2009年に撮影したプリピャチ市内から見たチェルノブイリ原発(筆者撮影、以下同)

 

 1986年に起きた旧ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)のチェルノブイリ原発事故は、放射能による被害を広範囲にもたらした。特に周辺地域の汚染は激しく、地元ウクライナではおおむね半径30キロが「立ち入り制限区域」に指定され、人々の居住が原則として禁止された。これに含まれる178の村で生活を営んでいた約12万人の住民たちは、大都市のキエフ近郊などに避難させられ、そこで新たな生活を築くことになった。

 ところが、住民の一部は制限区域に勝手に戻り、暮らしを営むようになった。多くは、都会の生活になじめないお年寄りたちだ。故郷に対する懐かしさが、放射能への恐怖感を上回ったのである。

 いったん無人となった村々で、人々の細々とした生活が復活し、現在に至っている。彼らは、「サマショール」(自発的な帰郷者)と呼ばれる。

 2009年4月、私はいくつかの村を訪ね、彼らの暮らしぶりを間近に見た。この夏、8年ぶりに村を訪れる機会があり、変わりようを確かめた。以前取材した村人たちの多くは亡くなったり村を去ったりしていた。生活が細々と続いていた制限区域内は、次第に無人の地へと還りつつある。その様子を報告したい。

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