カンボジアを「育て」フン・センに「命を絶たれた」ジャーナリスト「バーナード・クリッシャー」の軌跡
2017年10月18日
バーナード・クリッシャーが両親に連れられフランスへ「休暇」に出かけたのは6歳の時。ドイツにおける民族迫害の激化を受けてのことだった。クリッシャーはこの人生の始まりの時のみならず、後年にも独裁主義に関わることになるのだが、それを当時はもちろんまだ知る由もない。1937年の終わりに始まった両親とのその長き旅は、パリとポルトガルを経てニューヨークのクイーンズでついに終わる。クリッシャーはこの地において、わずか12歳で初めて新聞を作り、その後ジャーナリズムは彼の仕事となり、彼の人生を物語るものとなった。
クリッシャーが近年の仕事とし、おそらく最も長い年月をかけて成し遂げてきたのが『カンボジア・デイリー』紙の発行であるが、同紙はまずは膝を撃ち抜かれ、そして9月初め、死刑を宣告された。カンボジア政府が、同紙をもはや容認しないと決めたのだ。クリシャーが1993年に創刊(資金を提供)し、過去24年間にわたり週に6回の発行を続け、7500号を重ねた同紙の命が絶たれたのだ。
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