世界記憶遺産に登録されることになった「上野三碑」(高崎市公式HPより

 

「上野三碑(こうずけさんぴ=群馬県高崎市)」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に登録されるはこびとなった。

 古代日本には石碑が少ないが、7世紀から8世紀にかけて、群馬県高崎市の半径約1.5キロの範囲に、3つの石碑が建てられていた。それが山ノ上碑、金井沢碑、多胡(たご)碑の「上野三碑」だ。

 なぜ、関東平野の北西の隅に碑が建てられたのだろうか。まずは歴史をふり返ってみよう。

ヤマト政権と関東の接点

 ヤマト建国時の関東平野は後進地帯で、強大な首長は存在しなかった。そこでヤマト政権は人を移住させ、それまで手のつけられなかった土地を開墾したことで、関東は急速に発展した。中でも一番栄えたのは上野国(上毛野国。群馬県)で、5世紀半ば以降は、畿内を除けば日本一の規模と数を誇る、巨大前方後円墳密集地帯に変貌していった。

群馬は巨大前方後円墳と埴輪の国(写真は高崎市・八幡塚古墳=筆者撮影)

 上野国の地政学上の優位性はなんだろう。

 まずヤマト政権は、山側の碓氷峠から関東平野を睥睨してみたのだろう。地域を治めるには、高台から押さえ、威厳を示し、安全を確保する必要がある。さらに、利根川を下れば、東京湾に出られた(昔の利根川は、今の江戸川につながっていた)。だから上野国を足がかりにして、関東に進出していったのだ。上野国は、ヤマト政権と東国の民の接点だった。

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