「主婦の店ダイエー」と同じ年、同じ街に生まれたという仲野徹さん

 

 昨年出版された『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)が、そのわかりやすさと面白さで医学書としては異例のヒットを続けている。

 著者は仲野徹さん。1957年大阪生まれで、大阪大学医学部を卒業後、内科医を経てドイツに留学。帰国後は京都大学医学部講師、大阪大学微生物病研究所教授を経て、現在は同大大学院医学系研究科教授。ノンフィクション読書、僻地旅行に義太夫と、趣味も多彩だ。

 人気の本書は、仲野さんの学生向けの人気の講義「病理学総論」の内容を、「近所のおっちゃんおばちゃん」(本人談)に読んでもらうつもりで書き下ろしたもの。所々に関西人らしい「笑い」を織り交ぜながら、実はかなり専門的な病気の仕組みを素人にもわかりやすく解説するという内容だ。

 そもそもの執筆のきっかけや意図、さらには現代医学界事情から教育問題、日本社会の実情に至るまで縦横無尽の話を聞くと、やはりこの人もまた「異能異才」――。

「講義小ネタ集」のつもりで

 もう6年ぐらい前になりますか、あの内田樹先生(思想家、武道家。神戸女学院大学名誉教授)を世に出したという噂の編集者、晶文社の安藤聡さんと初めてお会いしました。なんとその日に「本を書いてくれませんか」と頼まれたんです。なんかええ加減な人やな、と思いながらもやり取りを続ける中で、内容はなんでもいいという話になった。じゃぁ、病理学だと講義経験もあるから楽勝かと思って、この本を書き始めました。

 ぼくはいわゆる病理学者ではありませんが、病理学を大学で教えているんです。そうすると、病気の成り立ちというものが意外と面白いということがわかってきたんです。

 大学を卒業してからもう40年近くになりますけど、その頃は、医学書に病気の記載はあっても、そのメカニズムまではなかなかわかっていなかった。それがこの20年ぐらい、生命科学がものすごく進歩して、論理的にわかるようになってきて、とても面白くなってきたんです。

 そこで最初は、病気のメカニズムをまじめに、教科書の内容をまとめたような形での本を書こうかなと思ったのです。ところが安藤さんに、「そんなんやったらおもろないから売れません」と言われてしまった。それやったら、講義で話しているようなエピソードを入れたら面白いかな、と。それでこんな形の内容になりました。本論プラス「講義小ネタ集」みたいな感じですね。だから、ぼくの講義を受ける学生には読まないように言うてます。書いてある小ネタと同じことをしゃべるので、講義で聞いても笑えなくなるから。もちろん、この本の小ネタから試験問題が出題されるということもないですよ。

「やさしい」つもりでも「難しい」?

 これでもずいぶんと心を砕いて、うんとやさしく書いたつもりなんです。それでも多くの人から「難しい」と言われます。

 確かに難しいと感じられるかもしれません。でも、それは論理の難しさではなくて、医学用語に不慣れなだけだと思います。考えてみたら、歴史とか理科などと違い、こういう医学のことは学校でまったく勉強していませんから、専門用語は知らなくて当然です。だから、そもそものとっかかりがすごく悪いんだろうなと思います。

 でも、自分や家族が病気になった時に、インフォームド・コンセントでお医者さんから受ける説明は、たぶんこの本で書いているようなレベル、あるいはそれ以上のものを受けるはずです。ということは、ほとんどの人は先生の言うてることをわからないまま「うん」と言うてはるんとちがうやろか、という気がします。「先生忙しそうやから、わかった言うとこか」などと思っている人が多いんじゃないでしょうか。

 そうなると当然、その時に先生に何を質問したらいいのかもわからない。少しでも知識があって、ええ質問、的確な質問をしたら、お医者さんの方ももっと丁寧に対応しようかなと、きっと思うはずなんです。お、この人わかったはる、という感じで。そうではないと、お医者さんも木で鼻をくくったような対応になりかねません。

 インフォームド・コンセントにしても、ぼくの本にしても、結局のところ一番難しいのは、どこから説明したらいいのかがわからないということです。

 本の場合、説明をすごく増やしたら、内容的にはわかりやすくなるかもしれません。しかし、情報量は減ってしまって、ある程度知っている人には面白くなくなってしまう。かといってあまり説明を端折ると、病気のことを一から勉強しようと思っている人にはわからない。どのレベルから解説をスタートするかというのが一番悩ましかったですね。

 これが講演会とかだったら、客席の顔を見て「わかってはらへんな」とか「きょとんとしてはる」と、だいたいわかります。でも本の場合はそういうわけにはいきません。だから、これ以上やさしすぎたら、質的にも量的にも成り立たないだろうな、というところまでやさしくしたつもりなんです。が、それでも「難しい」と言われる。たぶんですが、一般の人の病気に対する知識というのは、世の中のお医者さんが思っているよりもはるかに少ないんやろうな、というのが僕の実感です。仮にあったとしても、それがすごく偏っている。たとえば大腸がんひとつとっても、どんな遺伝子の異常でできたのか、大きさはどのくらいかで全然違うものなんですね。ところが一般の知識は断片的で、自分の身近で起こったことだけで判断して「これは大丈夫や」「あれはこわいわ」と思い過ぎている。だからぼくは、近所のおっちゃんおばちゃんに病気のことをわかってもらいたくて、この本を書いたのです。

今までにない医学の一般書を目指して

 

 正直、この本が売れるとは思っていませんでした。それは出版社もそうで、最初は3500部刷る、と言うてはったのかな。ところが発売直前にアマゾンに書影が出たら、予約がどんどん入ってランキングがぐんと上がったんです。そこで5000部に増やさはった。でも心配ですよね。だって読んでから予約しているわけではないですからね。発売したとたんに失速したらどないしよ、とか、弱気になっていました。

 でも蓋を開けてみれば、たくさんの人に読んでいただいて、増刷に増刷をくり返し、すでに18刷、6万7000部までいきました。結果論かもしれませんけど、ニーズとしてはあったということなんですね。

 後から考えてみると、医学関係の一般書は『家庭の医学』のようなちょっと難しい、木で鼻をくくったような説明しかない本と、怪しげな本しかなかったわけです。しかもその怪しい系の本が売れたりします。『ナントカを食べたらがんにならない』なんて、そんなことあったら苦労しませんわ。

 でもちゃんとした内容で、いろんな人に、そこそこわかりやすく読んでもらえる医学書はありませんでした。ぼく自身、書いている最中から「こういう本はないな」とは感じていました。「ないから売れる」とは限りませんから、まさか、こんなに売れるとは思ってもいませんでした。

 読まれた方からは、さまざまな反応がありました。ここ20年ほどの間に急速にわかってきたがんのメカニズムについてかなりのページを割いたのですが、あるがん患者の方はツイッターで、「がんになる前に知っていればよかった」と書いておられました。また別の方からは、「がんになって、なにか体に悪いことをしたかな、生活習慣が悪かったのかなと思ってしまいそうですが、『ガンは避けられないもので、どんな生活をしていてもなるときはなる。運不運もある』ということを読んでほっとしました」といったメッセージをいただきました。うれしかったですね。基礎研究ばかりで、世の中にたつことを少しもしてこなかったから、ようやく役に立てたような気がしています。

「医学が面白い」と言わない医学生

 医学というのは、勉強してみると文句なしに面白いんです。体、健康に関係あることですから、基本的には誰もが興味があると思う。ただ内容が難しいからなかなか勉強するのが難しい。でもその面白さは、病理学からなら伝えられるはずです。ちょっとえらそうですが、ぼくはその伝道師みたいなものですね。

 大学入試で、例えば文学部や理学部などで面接をしたら、受験生はその志望動機として「文学が面白そうだから」「物理が好きだから」などと言うと思うんです。

 大阪大学の医学部入試で、今年も30人ほどの受験生の面接をしました。ルーチンの質問として、どうして医学部を選びましたか、というのがあります。それに対して、ほぼ全員が「医者になりたいから」とは言いますが、これまで「医学が面白そうだから志望しました」という生徒さんに、1人として出会ったことがないのです。これはちょっとおかしんのではないかと思ってます。

 今の医学は専門化が進んで、医学部は医師になるための専門学校のようになっています。これはやむを得ないところもあります。しかしその専門学校に入学することが目的化してしまって、入学後に勉強をしなくなる子もけっこういるんですよ。医学を面白いと思えなくて医師になっても、一生辛いんじゃないでしょうか。

 学ぶこと、医学を勉強することそのものを面白いと感じることができれば、お医者さんになってからもいつまでも楽しいはずです。医学という学問が面白いと思えるかどうか。自分の講義では、そう思ってほしいと努力してるつもりですが、なかなか難しいですね。

海外での研究は「楽しい」

 医学が高度化・専門化したことで、医学生から医師・研究者になるのは、かなり厳しくなってきます。ぼくらの時代は、医学部を卒業して2~3年臨床医をしてから、大学に戻って研究する。それから2年ほど外国へ、といったキャリアパスが割合普通のものでした。ところが今は研修医制度や専門医制度でがんじがらめに縛られています。とにかく、脇目もふらず専門家を作ろうとしているわけです。

 ぼくも阪大医学部を卒業してから3年間、内科の臨床医を務めました。それから基礎研究を始めました。別にずっと研究者を続けようと思って始めたたわけではなく、まあちょっとはやってみようかな、と。4年ちょっとたって、せっかくやから留学ぐらいしとこか、というくらいの気持ちで、ドイツに2年ほど行くことに。

 ドイツを選んだのも別に意味があったわけではなく、アメリカよりもヨーロッパの方が遊びに行くとこが多いかな、というかなり不純な動機でした。大学生の時にヨーロッパ放浪旅行をした影響が大きかったですね。帰国したら研究をやめて、お医者さんしてもええか、という気持ちでした。

 ところがですね、ドイツで研究していると、とても楽しいんです。残念ながら、日本だとそんなに楽しくない。どうしてなんでしょうね。根本的なシステムが違うのか、今でも理由はわかりませんね。

 ただ言えるのは、ヨーロッパでの科学者は、いたって普通の職業なんです。一方日本では、科学者は特殊な職業で、変な人というイメージがありますよね。たぶんこの差、社会のあり方や歴史の違いというものがあるのでしょうね。

日本の研究事情「3つの問題」

 そんな日本の研究者の育て方については、やはりいくつか問題点があると思います。

 その1つは、今も徒弟制度的なものが残り過ぎている、ということです。

 日本はそもそも、人材の流動性が低いですよね。大学の場合それが先鋭化しています。もちろんある程度の徒弟関係は必要なのでしょうが、それが残り過ぎているところに問題があります。

 ぼくは大学院生に「絶対に、何人かの先生についた方がいい」とよく言っています。1人の先生だけについていると、どうしてもその先生の考え方だけがうつってしまいます。それだと結局は、学派というか一門的な発想から抜け出すことができなくなってしまう。

 問題の2つ目は、研究費の支出のされ方が、多くの研究者がこうあってほしいと思っているような仕組みになっていないということです。

 文部科学省の役人さんは、よくやってくれていると思います。でも、財務省が最終的にウンと言わなければ予算はつきません。そのためには、研究の目先を変えざるを得なくなってしまう。

 でも研究とはそういうものではありません。「不易流行」という言葉がありますが、「流行」だけでなく「不易」の部分も実は大事なのです。むしろ、そちらの方が大事かもしれません。ところが、対財務省の予算となると、どうしても「流行」に流れがちになる。そればかりになると、どうしても落ち着いて研究できない、という問題が生じます。

 また現代は、1人でコツコツと進められるような面白いテーマが急速に減っています。研究機材や手法がすごく進歩したため、すごくお金がかかるようになったし、個人よりも共同で研究することが圧倒的に増えている。つまりお金と人手がかかるわけです。そうなると、どうしてもマンパワーやインフラの整ったところが有利になります。極端な話、東大と地方の大学を、研究という同じ土俵で競わせても、無理な話なのです。おかしな平等主義が悪さをしています。これも研究費をめぐる制度的な問題だと言えるでしょう。

 3つ目は、新しい分野にドーンと参入しようとする人が少ない、ということもあげられるかと思います。たとえば中国は、時にトゥー・マッチなこともありますが、新分野に参入するのはすごく早く、しかも大規模です。ところが日本はそうではない。延々と続ける「なんとか道(どう)」みたいなのが好まれる傾向がありあす。これは研究の世界だけではなく、社会全体がそんな感じがあるので、どうしようもないんですかねぇ。

なぜ4割打者が出ないのか

 いろいろ言われますが、アメリカとかに比べると、やっぱり日本って、ビックリするような人はあまり出ていないような気がします。ノーベル賞の受賞者とか成功したベンチャー企業の数とかをみてると、そうとしか思えない。

 そういった能力は、日本人とかアメリカ人に関係なく、ある一定の頻度で必ず出てくるものだと思うんです。ところが日本人にはそれが低いという印象がある。それは、小さい頃からあまりにも型にはめた勉強をさせ過ぎるからとちゃうか、というのがぼくの仮説です。勝手な感想ですが、小さい頃からあんまり勉強させると、ベンチャーを興すようなトンガッタ能力がどんどん失われていくのではないかと。今のシステムは、多くの人をかさ上げするキャッチアップにはすごくいいものです。でも達人とか凄い人を世に出すには適していない。

 進化学者のスティーブン・ジェイ・グールドがその著書『フルハウス 生命の全容』の中で、こんな面白い話をしています。

 米大リーグの平均打率は、年々右肩上がりです。ピッチングマシンなどの発達で、打撃練習がすごくしやすくなり、結果として打率が上がり続けている。にもかかわらず夢の4割打者は、1941年のテッド・ウィリアムズ以来出ていない。これはおかしいですよね。平均打率が上がっているのに、最高打率は70年以上も更新されないなんて。

 これについてグールドは、まことに鋭い考察をします。つまり、あることがらについて、平均値が上がるにつれて、標準偏差は急速に小さくなっていくのではないかと。つまり、全体的には向上してるけれど、突出したスゴイものが出なくなる、ということです。

 これは、かなり普遍的ではないかという気がします。平均値が上がるとは、全体の効率が上がることで、悪くはない。けれど、標準偏差が小さくなって、おもろくなくなる。世の中が進むとはそういうもんなんやな、と変に1人で納得してたりもしますけど。

開高健の「格言」

 このことは大学入試にも当てはまるような気がしかます。受験技術は向上したけれど、ほんの小さな能力の違いを大きく拡大して比べてるだけではないかと。そう考えると、入学試験は、もう、完全に制度疲労をおこしてるとしか思えない。

 これからの医療を考えると、どうも理解しがたいのですが、医学部受験ブームと言われています。たしかに入学するのはとても難しい。もちろん、これは悪いことではありません。でも、勉強のできる子がみんな医学部に進む、という傾向はどう考えてもおかしい。そうなることによって、イノベーションに適しているかもしれない人材を、医学という狭い枠の中に閉じ込めてしまっているのではないかと危惧しています。入試成績とイノベーションは全く違うものです。成績優秀者がこぞって医学部へ、というのは、絶対に望ましくないでしょう。

 医学部は専門学校化しています。学部生として6年過ごし、医師免許取得後2年は初期研修に費やす。つまり世に出るまで、ミニマムで8年かかるわけですね。いわば、8年課程の専門学校に進むのに、小学生の時から準備をしている子がたくさんいる。それって、なんかおかしいやろと思うんですけど、こういうことを言うと嫌われるような気がします。

 毎年、講義の最初に「何かを得れば何かを失う。何物をも失わずに何かを得ることはできない」という開高健の格言を紹介して、「医学部に入ってうれしいと思てるかもしれんけどな、その時点で失ったものも多いで」と続けます。こんなイヤなことを言うのですから、学生に人気がないのも当然かもしれません。

 入試の成績がいい、というのが、どの程度意味があるかはわかりません。しかし、ある程度以上の能力に恵まれ、努力することができる、という資質は有しているはずです。そんな彼らがもっといろんな分野で努力してイノベーティブなことをやってくれたら、社会はもっとよくなるのではないかと真剣に思っているんです。

 子どもの頃から勉強ばかりしてきたせいか医学部にはいったとたん勉強をしなくなる子も少なからずいます。成績がいいから医学部へ行く、というのではなくて、もっと「医学」そのものに興味ある子がきてくれたらうれしいところです。ちょっとえらそうですけど、大学というのは、そういう場であるべきだと考えています。

 

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。