アメリカン・ドリームのオバマに一抹の不安

執筆者:徳岡孝夫2008年10月号

 アメリカが世界で最も強く最も豊かだった頃のことだ。いまは亡きパン・アメリカン航空は、客があってもなくても、一日も休まずに東回りと西回りの世界一周便を飛ばしていた。どちらかが001便、逆方向が002便だった。むろんジェット旅客機が就航してからの話である。 西回り便は夕方に東京(羽田)を発つ。香港かマニラを経てバンコク、ラングーンという順に刻んでいく。ニューデリーで真夜中になり、カイロかアテネで夜が明ける。昼前にパリまたはロンドンに着く。旅客機は今日より頻繁に給油しなければならなかった。当時の日本人は好んでJALに乗ったから、この東京発夜行便は空いていた。 そのうちに成田が開港し、欧州行きはアンカレジ(米アラスカ州)で給油の後、ヨーロッパへ直行する時代になった。北極海の上を、何時間もかけて飛ぶ。 アンカレジの待合室にはラーメンの立ち食いがあり、日本を発った人、日本に帰る人に人気があった。私はひとり長い廊下を歩き、突き当たりのドアから外に出た。一九七二、三年のことである。 本当は空港ビルから出てはいけないが、「禁止」と聞けば破りたくなる。一人の黒人がビル外の庭を掃除していた。思わず「久しぶりだなあ」と声が出た。黒人は手を休めて「何が?」と訊いた。私はちょっと困った。「黒人」をどう言えばいいか。

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