『上海時代(上・中・下)』松本重治著中公新書 1974年刊(現在は古書としてのみ入手可能)『上海時代』との出合いは三十数年前。大学院入試を二日ほど後に控えたある日、息抜きに覗いた古本屋だった。盧溝橋事件に向けて緊張の度を加える日中外交関係を縦糸に、上海を主な舞台に展開される虚々実々の和平交渉を横糸に、その渦中に身を投じたジャーナリストが自らの体験を綴った回想録に引きずり込まれたのはいうまでもない。だが、肝心の受験準備は最後の詰めを欠き不安なままに試験会場へ。ところが論述問題が「盧溝橋事件前後の日中関係について述べよ」。我が強運と僥倖に快哉である。 本書の著者である松本重治は若き日、聨合通信支局長として東アジア最大の国際都市であり、「魔都」と呼ばれるに相応しい猥雑で危険な香り漂う上海に赴任した。前年秋の満州事変に続き春先の上海事変、三月の満州国建国宣言と溥儀の執政就任、五月の五・一五事件、九月の満州国承認と、日本の針路を大きく左右する事件が相次いだ一九三二年(昭和七年)の十二月のことだった。アメリカのアジア政策に大きな影響を与えるオーウェン・ラティモーアと交わりを深めエドガー・スノウを知ることになる上海を、松本は「年ごとにますます東アジアの政治、経済、外交に関する一大中心地にな」り、「あらゆる種類の人間の往来離合集散の一種の市場みたいな場所であった」と回想する。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。