二〇一〇年五月に開幕する上海万博。地元政府は「入場者は、最多の大阪万博(一九七〇年)の六千四百万人を上回る七千万人を目指す」と意気込んでいた。ところが、そこへ米国発の金融危機が直撃。万博のスポンサー企業である米ゼネラル・モーターズ(GM)が出展を取りやめるのではないかという推測が一時広まるなど、万博の成功を危ぶむ声が地元で出始めた。 上海万博は「より良い都市、より良い生活」をテーマに、半年間にわたって開かれる。二百二十以上の国・国際機関が参加を表明。上海中心部に近い会場予定地は川沿いに造船所やアパートが建つ地区だったが、多くの建物は撤去され、施設の工事が急ピッチで進む。 日系企業は当初、「中国経済の中心である上海で知名度を向上させれば、中国市場を開拓する足がかりになる」という皮算用からパビリオン建設のほか、廃水処理や省エネをはじめとした環境技術の提供などの万博関連業務の受注を目指していた。ところが、ふたを開けてみると、中国企業が大部分を受注し、日系企業はほとんど受注できなかった。地元政府とのコネがなかったことが響いたといわれる。 会場建設に携わる業者の選定はほぼ終わり、今後は万博会場で実施するイベントを運営する企業などの選定が中心になる。JTBの関連会社など日系企業七社を含む約三百社が応募の資格を得たが、日系企業が日本関連のイベント以外を受注するのは難しいとみられている。

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