『アンネの日記・完全版』アンネ・フランク著/深町眞理子訳文藝春秋 1994年刊(現在は文春文庫版が入手可能) 一九五六年、大学二年の夏休みに帰省した折、姉たちが読んだ『光ほのかに――アンネの日記』があったので、私も読んだ。衝撃を受けた。一九七〇年代後半にはアムステルダム郊外のさる研究所に頻繁に通ったので、「アンネ・フランクの家」にも足を運んだ。八〇年代末に再度、同館を訪れた。が、それだけでは本欄でこの本を論じてみたいとは思わなかった。きっかけは別方向から生まれた。 十年前、ドイツ国外ユダヤ人に対するナチスの弾圧政策を調べる必要から、オランダで評判のナンダ・ファン・デル・ゼー著『“事態悪化を阻むため……”――オランダ・ユダヤの殺戮、協力および抵抗』を独訳で読んだ。副題どおり、ナチス占領下で恐しい運命を予感したユダヤ系オランダ国民の反応は決して一枚岩ではなく、とくにユダヤ人団体の首脳部には最悪事態回避のため一定の対ナチ「協力」も止むなしとの判断もあった。ただ、私に言わせると、同じ現象はポーランドでもチェコでもあったし、本家本元のドイツでさえ例外ではなかった。人間の悲しい性に国境はない。 が、それがファン・デル・ゼーの主要論点ではない。彼女は一九四〇年五月のドイツ軍オランダ侵攻時にロンドンに「逃亡」したオランダ王室、わけてもヴィルヘルミーナ女王にまつわる戦中、戦後神話を問題にしたのだ。女王が英都からのラジオ放送で自国民に「抵抗」を促したとの定説は偽善だし、とくに、同じオランダ国民なのにナチスの殲滅政策の犠牲となったユダヤ系市民の運命に熱く涙しなかったと論証した。凄まじい修正主義史観だ。この論点はオランダにのみ当てはまる。

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