日立・東芝とトヨタ・ホンダ。ライバル同士のトップがほぼ同時期に交代したが、その好対照の人選が指し示す企業の未来はまったく違う。 世界経済危機は一部に明るさが見え始めたとはいえ、本格回復までには長い道のりとなることは誰もが認識していることだろう。そうした環境のなかで、今春、日本の大手製造業、とりわけ日本のリーディング産業である電機、自動車ではトップ交代が目立った。 三月十六日、日立製作所は社長交代を発表した。二〇〇九年三月期に七千億円という日本の製造業では過去最大の最終赤字に転落する経営状況をみれば、引責辞任があってもおかしくないが、社内では古川一夫社長(六二)が〇六年四月の就任以来、まだ三年ということもあって続投の見通しが強かった。その意味では交代は、社外はもちろん、社内にも驚きを与えた。だが、社内外を驚愕させたのは後任の人選だった。グループ会社の日立マクセル会長の川村隆氏(六九)が後任社長に指名されたからだ。払拭できなかった「三原則」 グループ会社のトップに転じていた有為な人材が、本社の危機にあたって本社の社長に抜擢されるケースは決してないわけではない。だが、現社長より七歳年上のグループ会社のトップ、しかも社長ではなく会長に退いていた人物となれば驚かない人はいない。しかも退いた古川氏は副会長という中途半端なポストに残り、会長は新社長の川村氏が兼任するというわけのわからないことになった。日立の経営悪化の「戦犯」と衆目の一致する庄山悦彦氏(七三)はようやく会長の座をおりたものの、取締役会議長に就任した。川村氏に会長を兼任させたことは実質的に自分が会長権力を握り続ける目的といわれてもやむを得ない。日立関係者によれば、庄山氏は一時は自らが社長に復帰し、経営再建の陣頭指揮を執ることまで視野に入れていたという。なぜ川村氏になったかといえば、日立のトップの三原則「東大工学部卒、重電畑出身、(茨城の)日立工場長経験者」を満たしているからだ、と多くの日立関係者は説明する。

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