豚の全頭処分が噴出させたエジプトの矛盾

執筆者:池内恵2009年6月号

「豚インフルエンザ」の世界的感染拡大が危惧される中、エジプトでは全く別種の政治・社会紛争が発生した。まだ一人の感染者も出ていないにもかかわらず、国内で飼育されている三十五万頭ともいわれる豚の殺処分を行なうよう政府に迫る声が国会(人民議会)各党の議員から湧き上がった。エジプトの保健相は四月二十九日、全頭処分を発表し、実際に着手されている。 これは中東の外から見れば、不思議なニュースに感じられるだろう。新型インフルエンザへの対策を全力を挙げて行なわなければならないということに、どの国でも異論はないだろう。だからといって、豚を全頭処分するという対策を取った国はエジプト以外ない。世界保健機関(WHO)も、豚が人への感染を媒介しているとの証拠はないとして、エジプト政府の措置を批判している。 しかしこの問題は、イスラーム教に基づく社会体制と、近代化・都市化の問題の積み重なり、それらに対処するエジプトの政治・行政の能力の欠如といった根深い問題にかかわっており、中東社会の複雑さを示す格好の事例である。 国民の九割以上が豚を食べることを禁じるイスラーム教を信じるエジプトでは、大多数の精肉店で豚肉を扱うことはありえない。キリスト教徒の集住地域や、外国人が多く居住する地域の限られた店で、人目につかないように売られているのみである。大多数のムスリム(イスラーム教徒)にとって、豚を飼育し食べることは、想像を絶する蛮行である。そのような社会的疎外の中で行なわれる養豚の衛生状態の悪さは、表だって議論されることはないものの、よく知られた事実ではある。

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