「大国イラン」変貌の余波を凝視せよ

執筆者:田中直毅2009年8月号

 初代のホメイニに匹敵するだけのカリスマをもちえない最高指導者ハメネイにとって、バランスの維持だけがイランの革命体制の持続を保証するものと映っていたのだろう。二〇〇五年の大統領選挙に続いて今回もアフマディネジャドの支援に回ったのも、それが理由のはずだ。なぜならラフサンジャニとハタミという二代続いた穏健派大統領のもとで貧富の差が拡大してしまった以上、宗教上の教義を立国の基本に置くイラン革命体制を崩壊させないためには、高騰した原油代金からのあがりを貧者にバラ撒くという路線にとって代るものを想起できなかったからである。 ところが三十歳未満が人口の約六割という若い国家の内部では国際社会からの孤立のなかで、魅力的な職場がまったく生まれないことへの不満が高じていた。これが当初は有力とも思えなかったムサビ大統領候補への支持の急増につながり、想定外の票差が発表されると次には自然発生的に若者を中心に人々の街頭へ繰り出す行為が広範化することになった。イラン社会の変貌はもはや既定の事実となった。周辺諸国への圧倒的影響力 フランス外務省は一九七〇年代の石油危機に至る北アフリカとアラブ産油国の分析を誤った。そして高価格原油のもとでフランスは経済調整の失敗に追い込まれた。リビア、アルジェリアをはじめとしたアラブ産油国の分析をなぜ総合化させられなかったのか、という批判を国会で浴びた。これを受けての外務省改革によって、「分析と展望」を行なう部局は、少数精鋭にしたうえで分析にかかわる外注予算の方を膨らませることになった。この部局は情報の総合的な関連づけに責任をもつのであり、個別情報については外務省外への発注体制の整備で基本的に代替させるという方向性をとったのである。

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