古代版政権交代 大化改新の実相とは

執筆者:関裕二2009年11月号

 分かりやすい正義ほど、危なっかしいものはない。“古代版行政改革”として名高い大化改新も、人々を幸せにしたかというと、実に心許ない。 大化改新は、「正義の政権交代」だったことになっている。『日本書紀』によれば、「悪」の蘇我氏を英雄・中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣(藤原)鎌足が成敗し、大改革が行なわれたという。守旧派の蘇我氏を追いやることによって、ようやく改革事業に手がつけられたと、誰もが小学校の社会科の授業で習ったはずだ。だが、その裏側を覗いてみると、この常識は相当に怪しい。『日本書紀』によれば、改新政府は明文法(律令)を整備し、土地改革を断行した。それまで豪族たちが私有してきた土地と民を国家が吸い上げ、戸籍を造り、耕地を民に公平に分配するという新しいシステムが導入されたのだという。 もちろん、裸同然になる豪族たちには、相応の官位と役職、俸禄が与えられるのだが、広大な領地を世襲してきた豪族たちは、抵抗したにちがいない。そして、その代表者が蘇我氏だった、ということになる。いわば、蘇我氏は守旧派の巨魁である。 だが、ことはそう単純ではない。たとえば、蘇我入鹿殺しに奔走した中大兄皇子と中臣鎌足は、いざ新政府が樹立されると、活躍らしい活躍をしていない。それどころか中大兄皇子は、改革事業の邪魔をしている。政変後に即位し大化改新を推し進めた孝徳天皇は、新たに難波宮を造営したが、中大兄皇子は「都を遷しましょう」と主張し拒否されると、役人を引き連れ、孝徳天皇ひとりを難波に残し、飛鳥に戻ってしまった。そして、実権を握った皇子は、民衆が反発する中、無謀な海外遠征に猪突した。これが白村江の戦い(六六三年)で、日本は危うく滅亡するところだった。

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