「子供向けの音楽」という思い込みについて

執筆者:大野ゆり子2009年12月号

 小学生時代に音楽教室というものがあった。全校生徒でコンサート会場に足を運んで生の演奏に耳を傾けるという貴重な催しのはずなのだが、特にクラシックファンでなかった私は、たいてい第二楽章の半ばあたりで眠気に襲われてしまう。「どのぐらいでこの曲は終わるのかな」と思いながら過ごす時間は苦行に近かった思い出がある。 そのせいか、長いことクラシックの演奏会といえば「眠気との戦い」が付きものであり、それに打ち勝ったところで華やかな最終楽章を迎えるのが一種の通過儀礼のように思っていた。音楽教室で演奏されたプログラムは、たいてい、ベートーベンの交響曲第五番「運命」や第六番「田園」といった当時の文部省が選定した名曲だった。 ところがヨーロッパで体験した音楽教室は、私の小学生時代のイメージを大きく変えるものだった。あるパリの演奏会。十一、十二歳の子供向けに選ばれたのは、現代音楽ばかり。一例を挙げるとリゲティ(一九二三―二〇〇六)というハンガリーの作曲家の曲では、楽器から出ると思っている音以外の、ありとあらゆる音が出される。バイオリンは弦を使わずに、弓で木の部分をこすったり、手で叩いたりする。歌手は歌わずに口を開け、手で口を叩いてポンポンと音を出したり、うがいのような音を喉から出す。最後には打楽器奏者が新聞をびりびりと破る。

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