「小沢ダム」の異名を取る「胆沢ダム」は、九世紀の東北蝦夷征討の決戦の場にほど近い。多賀城と並び東北経営の拠点となった胆沢城は、胆沢ダムの下流に位置する。 西暦八〇二年、坂上田村麻呂は当地に赴き、阿弖流為を捕らえ、蝦夷の反抗は沈静化する。だが、ここにいたる道のりは、長く険しかった。 蝦夷征討は、八世紀初頭に本格化したから、経略に百年を要している。蝦夷が屈強で、ゲリラ戦を展開したからというのが一般的な見方だが、裏にはもっと複雑な事情が横たわる。 まず、「蝦夷」には実体がない。「蝦夷」という種族がいたわけではなかったのだ。東北地方への入植は、五世紀ごろからはじまり、六世紀、七世紀に本格化した。この結果、縄文的な文化や血は、かなり薄まっていった。八世紀の段階では、東北人は、れっきとした「倭人」になっていたのである。 ところが八世紀前半の朝廷は、彼らを「狩猟しか知らない野蛮人」と決めつけ、夷狄征討を叫びはじめた。「野蛮で教化に従わない蝦夷」というプロパガンダがでっち上げられた。 どうやら仕掛けたのは、藤原氏のようだ。藤原氏の勃興、発展と蝦夷征討は、同時進行している。それ以前の政権に、蝦夷と争った気配はなく、むしろ親しく交流していた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。