大地震と豪華客船 救済か偽善か

執筆者:徳岡孝夫2010年3月号

 ことさらに「節目」を言う人がいる。私は人生が過ぎゆくときも黙って見送りたい方なので、国家や人の運命にいちいち節目を感じたり感慨を催したりしない。だが先日、横浜港・大桟橋に近いレストランに座っていて、ふと「この海、この桟橋、船出したのは五十年前だ」とグッと感じた。一九六〇年七月、私は横浜港からアメリカへ向け旅立った。 当時、ジェット旅客機はすでに就航し始めていたが、速いかわり高かった。米国務省は留学生には贅沢だと判断したらしい。われわれ二十数人の若い日本人は、プレジデント・クリーブランド号の三段ベッドの一つ一つを割り当てられ、ドラの音と共に大桟橋を離れた。 われわれよりちょうど百年前の万延元年、日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の遣米使節団は米艦ポーハタン号で、またその随伴艦・咸臨丸も前後して、われらと同じ東京湾を出て、はるかに遠い米国に向かった。節目かどうかはともかく、まあ歴史の区切りである。ただし今日より五十年前のわれらの頭上には、もはやチョンマゲはなかった。 五十年後の今日、船旅は安価すなわち節約ではなく、贅沢なヒマつぶしになった。時間とゼニの余っている人だけに許されるオーシャン・クルージング。

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