赤シャツ陣営は明らかに訓練され統制されていた (c)EPA=時事
赤シャツ陣営は明らかに訓練され統制されていた (c)EPA=時事

 8月23日、タイを訪問した岡田克也外相は、4月の赤シャツ騒動に巻き込まれて日本人カメラマンが斃れた現場に花を手向けた。一連の騒動が収まったとの判断があったからだろう。  タクシン元首相を支持する赤シャツ陣営の有力指導者は逮捕され、あるいは国外に逃亡し、現アピシット政権支持へと鞍替えする元赤シャツ派議員も現れた。事件後最初に行なわれたバンコク下院補欠選挙では与党民主党候補者が赤シャツ陣営幹部を破り当選している。赤シャツ陣営の拠点とされる北部や東北部などに出されていた非常事態宣言も徐々に解除される一方、外国人観光客が落ち込むわけでもなく、GDP(国内総生産)成長率も予想外に堅調だ。バンコクの繁華街を歩いても激しかった衝突がまるでウソであったかのような賑わいをみせる。  息を潜める赤シャツ陣営に対し、確かに現政権は優位に立ったようにも見える。

深刻化する「ABCM複合体」の危機

 これまで「王国としてのタイ」を支えてきたのは、A(王室)、B(官僚)、C(財閥)、M(国軍)による「ABCM複合体」であった。いわば、これら権力機構が相互補完作用を繰り返すことで「国王を戴くタイ式民主主義」を機能させてきたわけだが、1980年代半ば以降の経済成長による社会経済構造の変化に加えて急激に進む国際化の過程で、複合体に機能不全が目立ちはじめた。その間隙を衝くことで、赤シャツ騒動はあれほどの広がりを見せたのだ。
 92年5月、タイでは今回の騒動に似た激しい反政府運動が起こっている。「5月事件」だ。
 国軍による露骨な政治介入を非難する学生や官僚、折からの経済成長を背景に勃興しつつあった都市の中間層を中心とする民主化勢力が、反政府運動を激しく展開したのだ。これに対し政府と国軍は一体となり躊躇することなく陸・海・空軍特殊部隊を投入し、反政府勢力を官庁街の一角に封じ込め、彼らの影響が他に波及することを遮断し、反政府運動の弱体化を狙った。特殊部隊兵士は軽機関銃までを装備し、包囲した反政府勢力への威圧を繰り返したが、じつは最終段階まで銃口は空を向いていた。市街戦さながらと報じられたが、一方の民主派勢力が銃火器を手にすることはなかった。当局は報道管制を徹底し、テレビやラジオの報道は規制され、事件発生翌日の各紙には白い空欄が見られ、そこで何が起きているのか現場関係者以外は知る由もなかった。
 ところが、今回の一連の赤シャツ騒動では攻防の様子は一変している。制圧に積極姿勢を見せた政府に対し、当初は国軍の動きは余りにも遅かった。国軍幹部にタクシン支持派が多く、治安出動を嫌ったとの説がまことしやかに伝えられ、政府と国軍の不協和音が目立つばかり。当初、官庁街の一角に陣取っていた赤シャツ陣営がバンコクの中心街へ活動拠点を移動させようとした時、かりに政府・国軍が一枚岩となって断固たる措置を採っていたなら、おそらく騒動があれほどまでに拡大することも長引くことも、100人近い犠牲者が生まれることもなかっただろう。さらには赤シャツ陣営が内外のメディアを巻き込んで自らの主張を広く伝えることも困難だったはずだ。いずれにせよ、初動段階で国軍が見せた消極姿勢が事態を深刻化させたことは容易に想像できる。

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