死刑の作法

執筆者:徳岡孝夫2010年9月22日

 死刑は深く重い命題で、死刑について考える人はしばしば無言に追い込まれる。「人が人の命を絶っていいのか」「人はよく過ちを犯すものだ」という認識や疑問が絡まり、安直な断定を阻む。かと思えば、問題が大きすぎるせいか、奇妙な行動を取る人がいる。  日本にも、その手の政治家がいた。彼女は死刑制度を嫌悪する法律家だったので、選ばれて法務大臣になって最初のうちは、死刑執行命令に署名しなかった。  しかし日本国刑法が死刑という罰を認めている以上、大臣が死刑を行なわないのは職務規律に違反する行動である。死刑がイヤならイヤでいい、法務大臣にならないかと誘われたときハッキリ断るべきだった。私的な信念とそれを否定する公的な義務を、使い分けて月給を取ろうとは厚かましい。  さいわい彼女は先の参院選で落選した。有権者の支持を失ったのだから、大臣の職を辞すのかと思って見ていると、彼女は職に留まった。留まっただけではない。なんだか妙にハシャギ出した。  まず死刑囚2人に刑を執行した。次に足元の床がバタンと落ちる刑場にメディアを招き、写真撮影を許した。さらに勉強会をつくって死刑存否の議論を始めさせた。  私の考えるところでは、彼女は落選と同時に辞職すべきだった。それが作法だと思った。いったい死刑廃止論者には、共通の特徴があると私は見ている。それは「私の方が人間生命の尊厳を(死刑容認論者より)深く考えているのだ」という誤れる信念である。彼らは、死刑制度を受け入れた歴代法相が、深く考えもせずに執行命令書にポンポンとハンコを押したと考えがちである。あまり前任者をナメないでくれと、私は(ひそかに)思っている。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。