日立製作所はこれまで、日本型経営のンンボルだった。ひとつひとつの分野では必ずしもトップではないが、「総合電機」としての断然の力。中央研究所を頂点とした圧倒的な技術系人材の集積。企業城下町日立市を中心に展開する壮大な関連企業群。「日立製作所天動説」ともいえる製作所頂点主義。東大はじめ旧帝大出身の博士、修士があたりまえという高学歴主義。そして大企業特有の官僚制……。 三千三百八十八億円の赤字を計上した日立製作所の九九年三月期連結決算は、日本型経営の転機を象徴していた。相次ぐスキャンダルの噴出でリーダーシップを失った大蔵省が「東大法学部不況」の象徴ならば、日立製作所の赤字決算は「東大工学部不況」の象徴だったともいえるだろう。 九〇年代、日立製作所がのたうちまわる姿をみながら、私は「青い鳥は近くにいるのに」と思いつづけていた。青い鳥とはソニーではない。東芝でもない。もちろん日本電気でもない。グループのノンバンク、日立クレジットである。バブル後遺症とは無縁 正直なところ、私は「日立には系列子会社から謙虚に学ぶ体質などないだろうな」と思っていたのだが、未曾有の赤字という現実がさすがの日立にも危機意識を生み出したようだ。金井務会長(当時社長)の肝いりで、九八年十月二十日に「日立グループ協議会」が発足、メンバーはグループ会社七社の幹部で構成されたが、日立金属の松野浩二相談役、日立電線の橋本博治会長などグループの実力長老にまじって、日立クレジット社長の花房正義が名を連ねたのである。

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