ローマ教皇謝罪の意味

執筆者:徳岡孝夫2000年4月号

 澄みきった冬空に雪を戴く富士の麗容。日本人なら思わず手を合わせたくなる。その自然の情が、西洋人キリスト教徒には通じない。

 彼らは滅多なことでは手を合わせない。山や海や昇る朝日、沈む太陽、海、コメを拝まない。へっついさんや井戸を祭る行為を理解しない。キツネが神になって、油揚を召し上がると聞いて驚く。日本には八百万の神がおわすが、彼らは一神教である。主の十戒は、その第一に「われはなんじの主、われの外にいかなるものをも神としてはならない」とある。モーゼがシナイ山で神と結んだ契約に発する、彼らの信仰とエートスの基礎中の基礎である。

 三月十二日、四旬節の第一の主日のミサの中で、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が行った説教は、驚天動地の内容だった。暮にイエスの第二千回目の誕生日を迎える今年を、カトリック教会は大聖年と定めた。教皇はみずからエルサレム、ベツレヘム、ナザレなど聖地を訪ねた。その巡礼の直前、主の死と復活に思いをいたす四旬節の冒頭に、彼は左のように言った。

「私たちは、私たちの先人が犯した誤りと過ちの重荷を担います」「私たちは宥し、宥しを願います」「キリスト者の間で、ある人たちが真理への奉仕に暴力を行使し、またある人たちが他の宗教を信じる人々に対して不信や敵意にみちた態度をとったために起きた分裂の宥しを願います」

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。