ある「ビルマの竪琴」物語

執筆者:徳岡孝夫2000年5月号

 いまは道路ができ車が走るが、昔はチェンマイまで何かを買いに行こうと思えば、往復に丸六日かかった。そういう辺鄙な、北部タイのビルマ国境に近いある村の話が「バンコク・ポスト」(四月二十日)にあった。タイの英字紙だから、日本人読者を予想して書いた記事ではない。

 昔、何千人もの日本の兵隊が、このクンユアム村を通って、密林の中の道をビルマに進軍していった。

 何年か経って再び日本兵が、こんどはビルマから出てきた。疲れ、傷つき、病んだ者が多かった。元気な人は竹でイカダを組み、川を下っていった。途中に大きな滝があり、全員が死んだ。陸路を選んだ人々はチェンマイからバンコクへ、烈日の下を歩いていった。

 戦争は終わったが、病気や負傷して歩けない日本兵は村に残った。民家に分宿し、村人が畑仕事に出るあいだ、子供の面倒を見てくれた。子らは、兵隊から日本の歌を教わり、一緒に歌って覚えた。いまでも歌える。二年以上も、日本軍はそうして村で暮らした。

 軍紀は厳しく、女には絶対に手を出さなかった。部隊長が違反者は銃殺すると命令したのだという噂だった。世話になっている村人を敵にしたくなかったのだろう。

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