民族的節操 屋良朝苗『屋良朝苗回顧録』

執筆者:船橋洋一2000年6月号

 一九六九年十一月二十六日、佐藤栄作首相はワシントンでのニクソン米大統領との首脳会談を終えて、意気揚々と帰ってきた。 ついに念願の沖縄返還が成った。 琉球政府行政主席の屋良朝苗はその前夜、東京のホテルに泊まった。佐藤を乗せた特別機が到着する羽田空港での首相出迎えに出席するため、屋良は上京したのである。 屋良が那覇の公舎を出ようとするところに、沖縄人民党など革新系の与党各派代表六人が来て、上京を思いとどまるように強い調子で詰め寄った。それを振り切ってきたが、二時間あまりの機上、懊悩深く、気が重かった。 ホテルの部屋で「食事をする気もなく、夜が明けるまで一睡もせずに、いつものクセで部屋の中を歩きまわり苦悶した」。 明け方、屋良は羽田に行かないことに決めた。その報告を受けた日本政府の当惑は大きかった。 屋良は戦後、沖縄にあって日本への復帰を一貫して訴えてきた。彼を初代の公選行政主席に押し出したのも復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)という屋良を軸とした母体だった。 その吶喊が本土を揺り動かし、米国を動かし、沖縄返還をもたらした。 にもかかわらず、屋良は本土復帰を祝福することを許されなかった。 沖縄の革新勢力は、「即時無条件全面返還」「B52撤去」「原潜入港の中止」などを求め、「佐藤訪米反対」を叫んでいた。

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