終戦後の混乱期、ヤミでサッカリンの製造・販売をやっている東大生のグループがあった。工学部の応用化学専攻の学生が製造を担当し、経済学部の学生が原材料の仕入れから販売までを一手に取り仕切っていた。現金が入ると、仲間ウチでの派手な酒盛りになった。そのなかには、読売新聞社長の渡邉恒雄や日本テレビ放送網社長の氏家齊一郎もいたという。「でも、本当にお金を稼いでいたのはたった一人。彼はそのころから商売人だったんだよ」。ある財界人がこう評するその「たった一人」こそ小倉昌男である。 この会社は儲かり、一年足らずで杉並に四十坪近くの工場を取得、『緑化成』として正式に株式会社化されたが、「そうこうしているうちに東大卒業後一年たってしまった。寄り道はこの辺で勘弁して貰い、(父の経営する)大和運輸(現ヤマト運輸)に入社した」「(ある時期まで)私の履歴書には、昭和二十二年東大卒、同年緑化成入社、二十三年大和運輸入社と書いていたが、このごろはめんどくさいので緑化成の項を省略している。これは経歴詐称になるのだろうか」と十年ぐらいまえ、小倉は毎日新聞で語っている。 終戦後三年間のドラマには小倉昌男の経営のエッセンスが詰め込まれている。それは「顧客のニーズ」のありかをさぐり「機を見るに敏に決断」して、それを「ビジネスモデル」に仕立て上げる能力である。

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