水島廣雄の忘れられた肩書き

執筆者:喜文康隆2000年8月号

 水島廣雄という男の軌跡を追いながら、私は昭和二十年代から三十年代に大ヒットした「七つの顔をもつ男」というシリーズの映画を思い出した。 主演の片岡千恵蔵が演じるのは、私立探偵・多羅尾伴内。「ある時は片目の運転手、そしてある時はインドの魔術師、しかしてその実体は……」。洋装には不釣り合いな体型をダブルの背広とソフトハットでつつみ、時代劇の大御所にして大スターが見得を切る荒唐無稽さとミスマッチの妙。この映画は、GHQ(連合軍総司令部)がチャンバラ映画を禁止するという事態を受けてプロデューサーたちが苦肉の策で生み出した「異形の空間」だった。 水島廣雄にも沢山の顔があった。「そごう」の中興の祖にしてワンマン会長。担保法の権威である学者。元興銀マン。そして政財界の黒幕。 その水島には、紳士録で引いても出てこない忘れられた肩書きがある。ジャパンライン取締役。一九七三年五月から同年十一月まで、このわずか半年間だけ就いていたポストは、水島が日本の戦後のなかで果たした歴史的な役割を浮き彫りにする。ジャパンラインを巡る興亡 七三年四月二十五日。ジャパンラインの土屋研一社長と三光汽船の河本敏夫社長は記者会見し、三光汽船が保有するジャパンライン株式一億五千万株のうち一億四千万株を放出することを発表した。三光汽船のオーナーである河本敏夫は当時、三木武夫ひきいる自民党三木派の金庫番にして現職の社長だった。三光汽船は一九六四年に運輸省や日本興業銀行が中心になって進めた海運集約の枠におさまらず、自由にタンカーや不定期船を発注・建造し急成長を遂げた“海運業界の暴れん坊”だった。その三光汽船が、突如としてジャパンラインの大株主として登場、合併を前提とした提携を打診したのが一九七一年十一月のことだった。

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